Flaneur, Rhum & Pop Culture
ベルリンからニューヨークへ、1920年代幻影
[ZIPANGU NEWS vol.103]より
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  壁の崩壊振りを確と目に焼き付けたベルリン滞在6日目の1990年7月24日、テーゲル空港からニューヨークへ飛んだ。JFK空港に着いたのは日もカンカンと照る夕方の4時50分だった。地下鉄に乗ってマンハッタンに入った。何を悠長なことをであるが、これには少し訳があった。
 2ndと3rdアベニューの間の52、3丁目辺りにあったあるアパートを訪ねるためだっだ。84年に映画『家族ゲーム』(森田芳光監督)のニューヨーク封切りの前夜祭をジャパンソサエティでやった時、雑誌の取材写真家で来ていた女性の元アトリエ兼アパートだった。前年の2月に滞在中、結婚のため引っ越しをするというその丸山メグのアパートを訪ねて、借りることに決めた俺のアパートだった。すでに14ヶ月経っていて家賃もただ払いしていた。勿論帰国後、ニューヨーク進出作戦を立て計画を練ったのだが、そう簡単には行かずアパートをほったらかしていたのは何ともふがいなかった。そんな訳でとてもじゃないが宿泊できる状態には無くて、ホテル代をうかそうとした魂胆は崩れた。
 当時気に入っていたアルゴンキン・ホテルにタクシーで飛び入りすると部屋は空いていた。1902年オープンのこの古いホテルは伝説の逸話を多く持っていた。内装はウッディでやや狭いが書斎風で、昔から作家や編集者によく利用されていて、ブロードウエイに近くノエル・カワードやアーサー・ミラーなどは定宿にしていた。東京で言えば、お茶の水・駿河台の山の上ホテルの趣だった。ホテルマンは馴れ馴れしくなく日本人の客はまずいない。西59の44丁目にあるので、どこに行くにも至便だった。何回か行った3rdアベニューのタイレストランのプーケットで、腹ごしらえを終えるころは結構良い時間が経っていた。歩かせるのがニューヨークの街だが、ベルリンからの疲れもあって、おとなしくホテルに帰ったが、そこはそこ、アルゴンキン・ホテルはブルー・バーという何とも魅力的で、ブロードウエイの女優がお忍びにぴったりの密室を持っていた。ブルー・バーのマティーニがニューヨーク一だと公言する者もいる。大阪のウエスティン・ホテルのブルー・バーはこのバーから取っている。気になっているが素敵なのだろうか? マティーニをナイトキャップにして部屋に帰りベッドに滑り込んだ。
 翌日、歩いて10分弱のグランドセントラル・ステーションのオイスター・バーでブランチをしながら、その日の行動を決める。いつものやり方だったが、散々歩いた3日目夜はどうしても観たい舞台があった。前年トミー・チューン演出で立ち上げ、トミー賞を総なめしたミュージカル『グランドホテル』がロングラン中だった。その日の夕方、セリーヌのニューヨーク支店長の平賀公示から電話があって、「切符が取れたので渡したいが、少し早く出てこないか」とのことだった。セリーヌ店を訪ねると「まぁ杯飲みましょう」と言って連れて行かれたのが、マジソン・アベニュー、50丁目のヘルムズレイ・ホテルと聖パトリックス大聖堂に挟まれた一角にある、とてつもない柱と天井高のある秘密クラブのバーだった。似合うカクテルは又もマティーニしか無い。1931年ヴェネチアでチプリアーニが創業したベリーニ考案の「ハリーズ・バー」のニューヨーク店の背中合わせにある。次いで連れて行かれたのは西21の52丁目「21クラブ」だった。1922年にもぐり酒場をオープンして禁酒法時代をくぐり抜け、今やニューヨーク一のレストラン・バーとして世界のトップ・オブ・トップを常連にするセレブ館を知らない訳が無かった。シャンパンとワイン、ドリアンと魚料理で腹を満たすと「そろそろ劇場に良い時間じゃないですかね」と促がす平賀公示は、一流のブロードウエイ鑑賞コースを設定してくれてお見事だったが、連れのお陰だと思っている。二度と入れない店を後にして、リムジンではなく歩いてすぐのマーティンベック劇場に向かった。
 1932年、ベルリンの豪華ホテルを舞台にしたヴィッキー・バウム原作の『グランドホテル』はグレタ・ガルボ主演で映画化されて、米アカデミー賞作品賞を獲っている。それを58年後のニューヨークで、1924年建立のブロードウエイの名門劇場でやっていて、しかも俺たちは舞台のベリリンから来たばかりの日本人じゃないか等の思いが、感受性を震わせて襲ってきた。
 この地でバーレスク&キャバレーの精神を注いだライブ・カフェ空間を夢見たのは本当だ。思想としての1920年代、ベルリンとニューヨークに乾杯!