Flaneur, Rhum & Pop Culture
トロンボーン版『帰れない二人』に見送られて
[ZIPANGU NEWS vol.98]より
LADY JANE LOGO











 2010年12月1日は八戸のホテルにいた。11月28日から「MASARA」というバンドのライブコンサートと私用で弘前、三沢、五所川原、青森を巡って、2001年に亡くなった映画監督の相米慎二の墓に参ろうと思って、東京帰りを1日遅らせたからだった。12月1日は八戸〜青森新幹線の開通の日で何かと賑々しかった。
 八戸の繁華街は八戸駅よりずっと海岸よりの本八戸だと前夜初めて知ったが、そこのホテルをチェックアウトしてJR八戸線で八戸駅まで行き、JR在来線なのに民間鉄道になっているらしい青い森鉄道で三戸で降りた。相米慎二のマネージャーだったムスタッシュの田辺順子に教えられた通りに、駅前のタクシーと掛け合うと、分ってますとばかりに50分程先の田子町の相米村に連れていかれた。「あそこに墓があります」と運転手が見上げて指差すと、29日、30日と初雪のあった青森だったが、ずっと南のほぼ岩手の県境近くでも内陸の集落故か雪を被った山間の斜面にあった。「エッ、ここから登るんですか?」と俺が運転手に訊くと、「ここからしかありません」と、遠い昔遊んだ記憶を呼び寄せるような道なき坂道は雪に覆われていた。片手に花と線香、片手に割ってはならじと地酒の豊盃を抱え登るが、二度滑落の上運転手の補助で無事辿り着いた。死んでも人に無理を強いる奴だった。帰り際、「折角だから実家の兄さん夫妻に会って帰りましょう」と運転手は誇らしげに言った。
 1973年、俺が小劇団「劇衆・椿」で『異邦人・夜を狩り込め』という芝居の作・演出をしていた時、小沼勝監督がロマンポルノ映画『女教師 甘い生活』の中に芝居風景を入れたいと言ってきた。そのとき以来、小沼組のまだセカンド助監督だった相米慎二と親しくなっていった。以降長い助監督時代、言う時は正鵠を射て物怖じしない彼との付き合いの中で、俺は三浦朗、海野義幸のプロデューサー、田中登、長谷部安春、藤田敏八監督等と酒を交わすようになっていった。1979年、最後の助監督だった『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督)を撮り終えた時、「レディ・ジェーン」で「俺もう監督で1本撮れるし、誰でも使えるよ」と確信に満ちて言った。そして翌80年、『跳んだカップル』で監督デビューした。81年『セーラー服と機関銃』、82年『ションベン・ライダー』、83年『魚影の群れ』とコンスタントに映画作品は続き、87年『光る女』でつまずいた。自分になろうとして個々の問題を詰め込み過ぎて、作品的に分りにくく興行的にも失敗した。監督の個が一番出ていると評価する映画界の天の邪鬼もいるが、相米慎二の映画技法の反省と自己格闘は、3年経った90年の次作にも大きく現れた。
 90年6月8日は丸の内松竹で『東京上空いらっしゃいませ』のプレヴュー試写の日だった。89年某日、相米は俺に会いにやって来て、「今度やろうとしている奴だけど」と一冊の台本を見せられた。「看板娘とトロンボーン」と台本には書いてあった。当時相米も属していたディレクターズ・カンパニーの製作で、監督と広告代理店社員の中井貴一だけが決まっていて、「中井がトロンボーンを吹いてる役なんだ。誰かミュージシャンを紹介してよ」というのが用件だった。当時よく出ていた好きなトロンボーン奏者の松本治のライブを薦めたが、「凄いけど高尚すぎる」だった。故富樫雅彦グループにいた佐藤春樹や向井滋春の出ている日時とクラブを教えると、3ヶ月くらい散々都内を歩きまくって、結局村田陽一に決めたと連絡があった。素人の中井貴一が映画内で吹くサウンドにこだわったからだが、別のシーンで流れる音楽には松本治も加わっていた。そうしたことに相米慎二の気ずかいと達見が読み取れるのだが、「俺、音楽のこと分かんねえからさ」と言って、『光る女』以後、相談と言うか雑談と言うか、クランクイン前にやって来るようになっていた。その『光る女』や『台風クラブ』で音楽に三枝成彰を使って、以後オペラを演出したり、バイロイト音楽祭でジュゼッペ・シノポリと友人になったらしいから、相米慎二の韜晦ぶりを知らずばひどい目に遭うところだ。『あ、春』と『風花』の最後の二作品の音楽だった大友良英はそこら辺良く知っている筈だ。
 天地を上下移動しながら、死んでこの世にいるヒロイン牧瀬里穂が言う。「私は今の自分は仮の姿なんだから、早く別の世界へ行って、ほんとの自分になんなくちゃ」と。丸でヒロインに語らせた自身への鋭い問いかけだった。