Flaneur, Rhum & Pop Culture
外人部隊の<ステップ・アクロス・ザ・ボーダー>
[ZIPANGU NEWS vol.95]より
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 今、1990年の出来事を書いているが、その4月の日、1本のVHSテープを入手した。ドキュメンタリー映画『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』は、70号でも触れたように、ロンドン、チューリッヒ、ライプチヒ、ニューヨークと、風や人に誘われて気ままな音楽の旅をした英国出身のフレッド・フリスの姿を追った映像作品だった。88年から90年にかけて撮影されたが、日本の京都では寺の境内の佇まいを、大阪ではおでんの屋台を、東京では高架橋や地下鉄をカメラは捉えて、即興音楽なれば可能な、音が小さな風景に溶け込み、人の織りなす表情に入り込む、言うなれば、音楽が生まれる原初の姿を垣間見せてくれるように、カメラは寄り添いモンタージュする。日本の映画配給会社ケーブルホーグの町田くんがそのテープを届けてくれた。
 脇道にそれるが、ケーブルホーグとは、名匠サム・ペキンパーの映画『砂漠の流れ者』(68米)の原題(正確には『THE BALLAD OF CABLE HOGUE』)で、砂漠に流れ着いた中年男が身ぐるみ剥がされたが、死の寸前奇跡的に水を掘り当てた上、綺麗な姉ちゃんも手に入れた。ところが水も銃も奪った2人の男が舞い戻ってきて…という、西部を独自の視点で愛情を注いだ、ペキンパーならではの挽歌が心に沁みる映画だ。
 配給会社ケーブルホーグの代表だった根岸邦明が、頑固で意地っ張りで情けないが、人とはいたずらに合わせようとはせず、自身の生き方を美学として持ち合わせている、つまり男が羨むすべてを生きて来たサム・ペキンパーの、代表作の1作品から社名を取ったのは、配給した作品を見れば一目瞭然と言える。他人から見ても腑に落ちるくらいだ。つまり、俺が大好きな名作といえども今や知る人ぞ限られる、ブラジルのクラウベル・ローシャ監督の『アントニオ・ダス・モルテス』(69)や『黒い神と白い悪魔』(64)。割と新しいところでは、といっても20年前の92年、当時70万円映画で話題を振ったロバート・ロドリゲスの『エルマリアッチ』や、まだ日本では衝撃の人では無かった80年代のアンドレイ・タルコフスキーの一連の映画。マイルス・デイビスのエレクトリック・アルバムで一番好きなのは『ジャック・ジョンソン』だが、70年、黒人初のヘビー級チャンピオンになったボクサー、ジャック・ジョンソンの史実を映画化した『ボクサー』は観たが、同年にマイルスが音楽を手掛けた映画『ジャック・ジョンソン』は、未公開だった故、未だに観てないという無念さがあるのに、後年ケーブルホーグは俺の知らないうちに、少数派『ジャック・ジョンソン』を配給していたのだ。と、脇道にはずれ過ぎてしまった。
 『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』を撮ったニコラ・ハンベルトとヴェルナー・ベンツェルのチームを「シネ・ノマド」という。ノマドとは旅する遊牧の民をいう。フレッド・フリスも撮影隊も、ペキンパーもケーブルホーグも、世の王道などとは無縁に生きている同一種族だと言いたかったのだ。
 90年に映画は完成した。フレッドのライブ風景がわが「ロマーニッシェス・カフェ」で撮影されたのは88年の2月だったはずだ。そして翌年の2月、ニューヨークで行ったクランクアップ記念パーティのことは70号で触れた。最初のライブはジョン・ゾーンが連れて来て一緒にやった87年1月、以来フレッドも店の顔になっていった。それはジョンと同様に、「MASSACRE」「HENRY COW」「ART BEARS」「SKELETON CREW」「MATERIAL」と<越境する音楽家>のフレッドが、イモズル式に顔を増やことになった。アート・リンゼイ、トム・コラ、クリスチャン・マークレイ、ビル・ラズウェルたちのことだ。更に映画が拍車をかけて、外人部隊が「レディ・ジェーン」共々店を襲った。前述以外にも、イヴァ・ビトヴァ、ロバート・フランク、映像作家のジョナス・メカス等が出演している映画が、世界を駆け回ったからだった。
 六本木WAVEの地下にあった映画館シネ・ヴィヴァンで、湾岸戦争が勃発した直後の91年2月、公開初日の夜、WAVEの隣の、今も「六本木六丁目開発」に抗して建っている東日ビルの広場に、フレッドはやって来て、映画内のように路上ライブを敢行した。
 今も細々続けている俺自身が企画制作するすべての行動を以来、<ステップ・アクロス・ザ・ボーダー>と名付けているのだが、さて。