Flaneur, Rhum & Pop Culture
瓦礫の向こうから『倭(やまと)』の津軽三味線が聞こえるよ
[ZIPANGU NEWS vol.86]より
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 3月11日に起こった東北大震災から10日経った21日の朝刊に「八戸再生への船出」の大見出しがあって胸が詰まった。壊滅的被害を受けた八戸漁港で、「かろうじて船が助かった自分たちが頑張らないといけない」と言った第25興富丸の船主が、スケソウダラやカレイを求めて暗い海に向かった記事だった。岩手や宮城に比べれば自分たちの方が被害が少ないと言うのだった。
 昨年の11月末、国境なき楽士団『マサラ』の東北ライブ・ツアーに行ったおり、弘前、三沢、浅虫、五所川原、青森と一人旅をした最後の地が八戸だった。初雪の降った三沢の寺山修司記念館を訪ねた11月28日は北朝鮮が5日前、黄海の南北境界水域の韓国の延秤島を砲撃して、4人の死者と多数の負傷者を出していた。基地の町・三沢の在日米軍は最前線として、スクランブル発進命令に備えて外出禁止令が出されていたのだそうだ。ゴーストタウンだった。寺山修司の従兄弟の息子さんが、そう言いつつ「死んでますよ、今日なんか特にね」と言って唇を噛んだ。そんな空気が太平洋岸に沿って北に行けば六ヶ所村じゃないかと想起させた。
 1993年から2兆1900億円もかけて上北郡六ヶ所村で進めている、日本原子燃料が所有する核燃料の再処理工場建設だ。当然今回の東京電力の福島第一原発も関係している。全国の原発で燃やされた使用済み核燃料を集めて、又核燃料のウランとプルトニウムを取り出す核燃料サイクル工場だからだ。ドキュメンタリー映画『六ヶ所村ラプソディ』(鎌中ひとみ監督)で広くその存在を知られる所となったが、試運転をとっくに開始している施設が放出した放射線や、地元民の生命線である畑や海を放射性廃棄物で汚染した事故は、既に何10回と起こっているが、人命よりも金とエネルギーが欲しい政府と日本原子力研究開発機構は、相次ぐトラブルの連続で18回も工事延長しても、完成までやり遂げるつもりらしい。
 11月30日は三戸にある故相米慎二の墓参りに行くために八戸のホテルにチェックインした。夜中の12時近くだったので、バッグを一個部屋に投げてフロントで訊いたバーを探した。二軒目のバーは「Fifty Second」という名だった。52丁目とは勿論ニューヨークはマンハッタンの中心地で、かってチャーリー・パーカー所縁のクラブ「バードランド」などを抱えたジャズの中心地を意味する場所のことだ。「東京はどんな所へ行かれますか?」とオーナーが訊いてきたのは二杯目を空けた時だった。「えっ、毛利さんの弟子だったんですよ僕、電話をしてみます」と言いながら、手はもうさっさとボタンを押していた。小さな親切、余計なお世話にも思ったがこの時は何故か気分が良かった。毛利とは日本のバー業界で知らない者はいないだろう銀座の「モーリバー」の毛利隆雄のことだった。「久しぶりだと思ったら八戸から?」と呆れていたが、うむ、まったくそうだ。オーナーの名は寅谷幹夫といって真っ白いバー・ジャケットを着ていた。仕事服まで一緒とは良く教育が行き届いていることだ、さすが毛利隆雄だ。八戸の街は八戸駅とは離れていて八戸線で二駅太平洋岸に向かった本八戸駅周辺だったので、彼の実直な弟子の店は大丈夫であっただろうか?初めて訪ねた町で初めて覗いたバーの些細な出来事でも、人間にも虫の触覚や<縁>という不思議なものもある。
 89年6月28日、狸穴のソビエト大使館裏にあった「ガスライト」は霞ヶ関全日通ビルに移り、俺は晴れて店主になった毛利隆雄のバー「ガスライト」の開店記念のカウンターにいた。数年前からうちの店のバーテンダーは直接指導を受けていたし、俺自身の酒場哲学も彼から習得していたし、毛利隆雄は当時も今もアイドル・バーマンだったのだ。そんな軽文化を楽しむ場を獲得したと思えば、腐心することも人生に付きものなのか。
 少し前の2月2日、東電は福島第二原発三号機内で水中軸受けの円盤と羽車が破損し、ボルトと座金が脱落していたと発表。2月13日、しかも原子炉内に入っていたと判明。2月28日、核燃料棒に別個の金属片が付着していたことが発覚、報告は一切なかった。こんな事故皆忘れているだろうが、安全怠慢と秘密主義はズーと前から今日まで何も変わってはいないのだ。彼らは不思議な動物だ。建屋じゃなくて動物園の檻にでも入れとけば面白いのに。