Flaneur, Rhum & Pop Culture
古き良きベルリーナ・キャバレー妄想・その2
[ZIPANGU NEWS vol.80]より
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 1989年2月22日、在ニューヨークの写真家で知人の丸山めぐのアパートを訪ねていた。前日のランチを2ndアベニュー&51丁目のタイ・レストランでした時、彼女が「半年後に結婚する」と言った。続けて相手は白人のニューヨーカーでバーテンダーをしているが、バーのオーナーを目指していること、今のアパートは引っ越すことにした等と言ったので、俺が「君の部屋が見たい。良ければ借りるかも知れない」などと言ったからだった。2ndアベニューから44丁目を一寸入った所だったので至便の位置だった。84年9月、松田優作主演、森田芳光監督の映画『家族ゲーム』がニューヨークに招聘された時、ジャパンソサエティが開いた歓迎レセプション・パーティがあった。その夜プレス・カメラマンとして来ていたのが丸山めぐだった。1LDKの一部屋は殆どラボと化していて、リビングルームにまではみ出していたが、一人住まいには広くてニューヨーク用の部屋としては勿体ないほどだった。
 部屋はまず借りる。めぐの彼を店長バーテンダーにして、俺が時々訪ねて来ればまずまず店舗は成立するだろう。コンセプトのキャバレー構想は頭の中に出来上がっている、後は肝心の物件選びだ、金策のことなど頭になくて、鉄は早いうちに打てと言うだろ、何処か不動産屋に連れてってくれと彼女に頼んだ。滞在中に2軒ほど不動産屋は訪ねていて、東京とは広さや天井の高さは問題にならず、しかも家賃は半額に近かった。現実化に一歩近づいたと微かに思っていたが、俺に取っては言葉の問題もあって今一つ不明だった。彼女は連れて行ってくれた不動産屋に、俺の店舗構想を懇切丁寧に説明してくれた。そしてクリヤーすべき二つの問題があると不動産屋は答えた。
 一つ、酒類を扱う店は「リカー・ライセンス」という許可をニューヨーク市に申請してもらわなければならない。只これは規定の金額を支払えば取得できるだろうとのこと。二つ、演奏でも何でもパフォーマンスをやるには、「キャバレー・ライセンス」が必要だが、環境、ロケーション、営業時間、風紀など、この免許の取得がなかなか難しく、しかもライセンス料もなかなからしく、みんなそれで諦めているようだった。これは結構な課題になった。
 その夜、ヴォイス・パフォーマーの天鼓、亭主だったフレッド・フリス、ジョン・ゾーンの四人で、ディナーをグルメの彼ら推薦のユダヤ・レストランで取った。生まれて初めてのユダヤ料理に舌鼓を打ちながら、脳裡はまたクルクルとあんなキャバレー、どんなキャバレーと妄想がもたげてくるのである。というのも、東京でユダヤ料理なんて聞いたことは無かった。当時はベトナム料理もほとんど無くて、世界三大料理のトルコ料理でさえ無くて、イタリア、フランス、中国、韓国ばっかりだった。何も料理店に限ったことではなくて、二日前に観た『レ・ミゼラブル』のレベルは劇団四季のとは比べようも無くて、あらゆる文化に対する取り組みと精神が、ニューヨークと金ばっかりの東京では天地の差を感じた。実際当時のバブル日本は、大挙「海外文化」を呼ぶだけ呼んで外国人に美味しい思いを与えて、東京は何も残さなかったことに怒り浸透していた。何が<ワールドミュージック>だ!である。
 食事後、或るバーを訪ねる必要があった。一人南に歩いて下る。80年に下北沢にイベントホール「スーパーマーケット」を立ち上げた時のプレスリリースに、<下北沢は日本のグリニッジ・ヴィレッジだ>とぶったが、開発が進んでいるそのヴィレッジの西側、7thアベニューからベドフォードst.を更に下るとダウニングst.にぶつかる。右に曲がった路地裏に、健未路という怪し気なジャズ・ピアニストがやっていた「GAS POINT」というジャズ酒場はあった。道を聞くために電話を入れた時、飲みたい酒を買ってこいと言ったので、?と思いつつ酒を手に店に入ると、グラスが空の先客が表で酒を買って戻って来て、グラスに酒を注いでいるではないか!?何だ?と俺が質問すると、健未路が平然と言った。「リカー・ライセンスを払う金が無いんだ」。「じゃ、それこそ飲み代だけか」と呆れると、「料理があるよ」と又平然と言った。じゃ、ジャズライブは?とリカー・ライセンスのことなど訊くまでも無かった。俺は<もぐりキャバレー>をやるつもりは無かったが、難関を実感したのだった。