Flaneur, Rhum & Pop Culture
ニューヨークに於ける我が『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』
[ZIPANGU NEWS vol.78]より
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 前号の翌日1989年2月14日、映画『ブラック・レイン』のハリウッドでの撮影を終えた松田優作と、ユニバーサル・スタジオからホテルに直行した。「俺の部屋に来ないか」と誘われるままに彼の部屋を覗いたのは、まだ日の落ちていない時間だった。ストックしていたらしいカップラーメンをすすりながら、その日の撮影シーンを引き合いに出しながら、ハリウッド映画の製作方法の違いや凄さを語り出した。その日は何とAスタとかBスタとか言うスタジオ内にある本物のジャンボ機内での撮影だった。左に固定した当然ワンキャメラで、ワンカットを何十カットもテイクして終わりだとクルーに思わせておいて、次は「右からも撮っておこう」となる。血を浴びたスーツは何十着も着替えの用意がしてある。そんなところからどんな映画が作られて行くかが問題なのだが、松田優作にとって重要だったのは、それを誰がどうやって伝えていくかだった。アメリカでの撮影はかって『人間の証明』(77年監督佐藤純彌)で経験済みのはずだったが、撮影隊が現地クルーであっても監督が日本人で、当人の若さもあってよそ行きだったんだな等と思っていると、すっかり夜は更けていた。高台のサンセット大通りにあるホテルの窓からは、眼下にロス市街の広大な夜景が見渡せる。「素敵だよ、人間が生きているよ」と繰り返す彼の言葉を背なに自分の部屋に戻った。
 サンディエゴで私用をすませた2日後ニューヨークへ飛んだ。石橋凌が待っているというので付き合わねばならなかった。マンハッタンのレキシントン・アベニューにあったグラマシーパーク・ホテルに着くと、成田空港から先に着いていた。ホテルのバーで待ち合わせて、“ニューヨークで乾杯”をやるや否や、松田優作が3日前のハリウッドのホテルで俺に言った<伝えていくこと>が頭をよぎってつんのめりそうになったが、ニューヨークの旅は俺たちの旅と思い直して、当時ニューヨーク在していたベーシストの塩井るりを呼び出して河岸を変えた。彼女が連れて行ったのは、ニューヨークの先端型「テレホン」というバーだった。翌90年に再訪した時に体験したことだが、最新の踊るクラブ・パーティの開催の仕方は、直前まで秘密にしておいてパーティ主催の電話番号を知っている者だけが、その情報を知り予約出来るという「テレホン」という代物だった。マンハッタンには何千人も入れる空になった巨大倉庫があったし、パプニングを面白がるニューヨークっ子の考え出したアイデァだった。「テレホン」は最新キーワードだったのだ。彼女は「ロマーニッシェス・カフェ」には何回か出演していたミュージシャンで、のち帰国して数年後、恵比寿にあったいかにもニューヨークらしい「ミルク」という先端クラブをオープンしていた時、石橋凌もお世話になったのだから縁は面白いのだ。
 翌17日は映画『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』(90年)のクランクアップ記念のパーティがあった。まったくの偶然だった。シネノマドという集団が監督した、ギタリストで即興音楽家のフレッド・フリスを追ったドキュメンタリー映画だった。フレッドは「レディ・ジェーン」にも良く出演していたが、ロンドン、チューリッヒ、ライプチヒ、NYと世界を廻った撮影隊が、東京では「ロマーニッシェス・カフェ」のフレッド・フリスを撮影したという関係があった。この映画の共演者には、ジョナス・メカスやジョン・ゾーン、アート・リンゼイやトム・コラ、林英哲と世界の異才鬼才がいて、音楽が生まれる初源に迫ったこの映画は、00年にカイエ・ド・シネマの「映画史上最重要100選」に選ばれている。出掛けようと思ったがNYタイムは遅い。建設会社のNY支店に勤務する石橋凌の長兄に誘われて夕食した後、ピアノバーに連れて行かれた。ピアノバーというのは、銀座のお姉さまがいるクラブのようなところで生オケクラブだった。ところがブロードウエイを目指している世界の若い娘のいるそこはなかなか居心地が良かったので、一人タクシーでユニオンスクエアーの会場「LOFT」に着いたときは12時近くで、パーティは終わりかけていて俺は酔っぱらって椅子で眠ってしまい、ジョン・ゾーンに起こされた時には、誰かに醜態写真を撮られていた始末だった。