Flaneur, Rhum & Pop Culture
鑑定家・光悦を鑑定する
[ZIPANGU NEWS vol.76]より
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 先月5月5日、ニューヨークの競売屋クリスティーズのオークションで、ピカソの絵「裸体、緑の葉と胸像」が100億円で落札されたと新聞に出ていた。後進国は飢えで死者を産み、先進国は住宅を無くした失業者を多く産んでいる世界の不況下、お目出度い人もいるもんだと差別を再認識した。
 そんな連中が日本にも海外にもごろごろいて、今日はピカソが何十億で昨日はゴッホが何十億だと騒いでいた1988年が終わり89年を迎えると、いきなり昭和が終わった。松田優作が三たび『ブラックレイン』のニューヨーク・ロケに出立した翌日だった。昭和天皇が下血で亡くなった1月7日午前5時半から8日の長い二日間、茶の間と街頭のテレビからCMはおろか一切の歌舞音曲の放送は、国家経営のNHKに於いては禁止され、民法においては自主規制されて排除された。テレビ曲には3万本以上の苦情電話が有ったが、画面は64年に及んだ昭和の記録がしめやかに流れ続けた。異様な光景は国家の統制を思わせたが、ライブは「レディ・ジェーン」では先月号で触れた天鼓が津軽三味線の佐藤通弘と、「ロマーニッシェス・カフェ」では黒田京子の『機械仕掛けのブレヒト』を篠田昌已、広瀬淳二、大友良英でそれぞれスタートさせた。共にフリー・ジャズのかっこいいスタートだったと言いたいのだけど、実は、暮れの大晦日に癖の悪い酔っぱらった友人にこずかれて、尻から床に落ちて仙骨を骨折していたから、喜怒哀楽を表情に出せない痛さを抱えていた。そんな難儀の状態に追い討ちをかける難儀な事件がその直後に発生した。
 1月11日、両店のマネージャー代理をやっていたスタッフが、突如浦和西署に連行されたのだ。寝耳に水だったが、前から大麻をやっていたことが元仲間の通報で発覚したらしかった。骨折の痛みは整形外科に通っても部位が部位で治療の施しようも無く、俺は面会に、弁護士との打ち合わせに、証人として法廷に立つために浦和まで再三出掛けた。間もなく、証拠隠滅の恐れも無く他の容疑の疑いも無いので、保釈は可能だと弁護士に言われた当人の母と俺は、保釈手続きをとる為にまず金を用立てることだった。当人は日本名は持っていたが、J・Jとニックネームで呼ばれていた彼は西洋人の顔をした日本人だった。つまり岩国の基地で米兵と日本人の母の間に産まれた私生児で、父はとっくにアメリカに帰っていて、自分の手で育てて来た母に余分な金等有りはしなかった。ところがすぐ岩国から上京していたJ・Jの母から「コーエツの楽茶碗を持って来てるのだけど観て欲しい」と電話があった。「コーエツって、あの本阿弥光悦のこと?」と訊くと「そうだ」と母は答えた。観てくれと言っても俺に判る訳が無い。静岡で古物の貿易をやっている友人を呼んで下北沢で開陳した。桐箱にも茶碗本体にも光悦と名が入っていた楽茶碗だった.
 1558年京都生まれの本阿弥光悦は、工芸家、書家、画家、出版者、作庭師、能面打ちと様々な顔を持った日本のダ・ビンチの異名で語られる見識眼の秀でた芸術家だが、特に書に於いては、近衛信伊、松花堂昭乗と共に<寛政の三筆>と偉名を幕府から頂戴していた。古田織部を茶の湯の師とした「不二山」と題された光悦の楽茶碗は、国宝に指定されている国産陶芸品二品のうちの一品だ。因みに楽茶碗はろくろは使わずに手びねりで作陶する。豊臣方に付いた師の古田織部が徳川方から自害させられた後も、家康から京の西北の鷹が峰に9万坪の土地を貰い受けて、晩節に更に高次の芸を磨いた光悦流の元祖という大物だ。もともと足利尊氏に仕えた刀剣鑑定の家系を先祖にしていて、鑑定家の異称は本阿弥家に付けられたものだった。友人の橋本欣也は唸りながら言った。「うーん、光悦と言えば光悦らしさが漂っているけど、僕には真贋は判らないね。光悦だったら1千万は下らないけど」…。ということで、テレビ番組も無かった頃だ、橋本欣也に預けて知人の鑑定士に観てもらうことにした。
 保釈金は別途でどうにか用立てた。2月2日、浦和西署を出所したJ・Jが、おあつらえ向きの雪が降る下北沢のイタリアン・レストランで言った。「あんなものに騙されて持ってたから、こんなことになったと思っています」と。
 ところで、ピカソは心配いらないんだろうな?!