Flaneur, Rhum & Pop Culture
バブル時代にフリー・ジャズは流れる
[ZIPANGU NEWS vol.75]より
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 「師匠に刺して来いと言われたら、行ってたと思うよ」ー1988年の10月の終わり、西麻布の「ロマーニッシェス・カフェ」のライブにギターとターンテーブルの大友良英が初めて出演した。当日は、ギターの渡辺香津美を加えて「マウンテン」というバンドを結成していたベースの井野信義とドラムの山木秀夫のデュオだったが、そこに急遽加わることになった。だからチラシにも乗ってないし記録からも漏れていたりする。70年から遠く経ていたとはいえ、命を刻む音楽とその概念が生む思考の差は派閥を生んでいた。苛烈なフリー・ジャズの世界では特にそうであった。巻頭の言葉は、敵の陣営の刺客となることを甘んじて受けていただろう、と当時を回顧して大友良英が言った言葉だ。それほど五体投地していた師匠の高柳昌行に、音楽上の理由でパージされていた身の大友良英を兄弟子の井野信義が誘い込んだのだから、その複雑さは今尚残っている。対して、間章〜近藤等則ラインを思えば近藤等則〜山木秀夫ラインと続く訳で、解析は音楽家の脳内を探ることほかない。
 真剣勝負は時代と寝ない者たちにとっては、いつであっても普段の姿勢が当然だろうが、時はバブル時代だった。12月には表参道に今もあるスパイラルホールのイベントを考えてくれないかと、友人の長井八美(青い鳥創業代表)から頼まれた。アバンギャルド思考の俺は、ベルリンから帰国中の高瀬アキと能管の一噌幸弘を無責任に初対面させた他、拡声器の歌手ジミー村川のバンド、三つ目にピアノの黒田京子が主宰していたORTというユニットの「機械仕掛けのブレヒト」を呼んだ。特にベルリンということもあって、演劇とのミクスチャー表現が好きだった。メンバーは黒田京子の他、サックスの篠田昌巳に広瀬淳二、そして大友良英だった。ターンテーブルの他カセットテープで妖しげなベルリンと今日の東京を切り結ぶSEを音楽に絡ませていた。彼が当時所属していたバンドはこれ位しか知らなかったし、仲間の広瀬淳二とライブをやったり、デュオのカセットを出したり、後は富樫春生と塩井るりのMAOとやったライブもあったっけ。以上三バンドが一階のスパイラルガーデンで展開して、三階では近藤等則の「IMA」が同時多発していた。こんな乱暴な風景がバブルの時代に、バブルの時代だから出来ていたのか、当たり前のことだが、青山の中心地で良く許されてスポンサーも金も出していたと思う。
 バブルよ今夜もありがとう的に言えば、時を同じく、64号で触れた「ロマーニッシェス・カフェ」の東京FMによる月一回の生中継実況放送の最後のライブに、常連だったジョン・ゾーンに出てもらい、共演者の高橋悠治と寸分も相手に隙を見せない緊張のバトルを繰り広げた。“あぶなかった実験企画”は、真の意味であぶない実況中継ライブを終えたことで、成功したと言うべきなのだろう。
 そんな時代に関わらず、下北沢には表立ったバブル現象は見られなかった。というより、80年代前半に下北バブルに見舞われたというのが持論だが、その反動で世の流れを受けなかったとも言えるし、元々自立した<村という街>でもあった。よそ者の闖入を歓迎するかと思えば元来の排他性を表に出してくるといった変な矛盾現象が昔から有る。元々よそ者の俺はそれが嫌だったのと、当時渋谷や青山よりテナント料が高騰したことに腹を立てて、西麻布に支店を出した経緯も有った。ジョン・ゾーンが西麻布で最後の生中継ライブを終えた数日後の12月、ヴォイスの天鼓が毎月相手を選んで対マン勝負をして行くという企画を立てて、一回目の相手はジョン・ゾーンだった。ジョンのウエルカム・トゥ・シモキタザワだったが、その余りにもノイジーな轟音に切れた酔客が演奏者に割って入り、演奏妨害行為をしたのはよそ者への洗礼だったのか、おちゃらけだったのか!いずれにしても、これを契機にしてフレッド・フリス、トム・コラ、マイケル・チャドボーンなど英米派が、既に出演していたアレキサンダー・V・シュリッペンバッハやハンス・ライヒィルなどドイツ派と入り乱れて行き、日本の渋谷毅や梅津和時、吉沢元治や豊住芳三郎が受けて立って行くのだが、そこに大友良英が加わるのにさほど時間は掛からなかった。