Flaneur, Rhum & Pop Culture
『ブラック・レイン』撮影クルー、ニューヨークへ
[ZIPANGU NEWS vol.74]より
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 1988年12月8日、映画『ブラックレイン』の最初の大阪ロケを終えて東京に戻って来た松田優作と、マーチン・スコセッシ監督の新作『最後の誘惑』の試写を配給会社のUIPに観に行った。何しろ日本の俳優が出演している大型のハリウッド映画の撮影が大阪で行われているのであるから、新聞やテレビのマスコミが騒がないわけがないので、外側からの様子はそれなりに知っていた。そんな映画の主役をやっている男が、オフの日が出来たからと言って他人の映画を観に行くのかと俺は首をひねったが、彼は日常を普通通りにやるのを旨としていたから、というより日常がもともと異常だったから、そんなことは平気だったらしい。監督が気になるスコセッシだったこともあった。映画はウイレム・デフォー扮する<神の子>イエスではなく<人の子>イエスが、欲情をあらわにしてマグダラのマリアとの性欲と愛に悩むという斬新な解釈だったせいで、世界各国で物議をかもしていた映画だった。
 観終わった後ホテル・オオクラの五階にあるにある銀座九兵衛のカウンターで、同行した映画著述業の山口猛を交えて、仏教の日本人が西洋の異教の解釈をしていた。熱がこもってきた故山口猛が口角泡を飛ばすことは知っていたが,隣の俺に顔を接近させて来るので、折角の鮨が不味くなると言って俺は腕で押しやり、同じスコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』を、松田優作と同じUIP試写室に観に行ったことを思い出していた。『タクシードライバー』や『レイジングブル』のスコセッシとデ・ニーロのコンビの映画で、喜劇俳優のハロルド・ロイドに憧れたしがない男(デ・ニーロ)が誘拐を楯にしてテレビ出演を迫る話だ。デ・ニーロのことは散々二人で語ったが,その試写の後は愕然とした風情で「かなわねえよ」とつぶやいた。そういう時には口を詰むって下手に喋らない方が良い。雑誌に残した松田優作の言辞に依ればこうなる。「俺、『キング・オブ・コメディ』まではある程度とらえられる距離にいたつもりだったんだ。だけどあれを観てほとんど絶望感じたね。完全に落ち込んじゃった。今世紀生きているうちは、とてもじゃないけど勝てっこねえ。何て言うか役者として誰も行かなかったところに、デ・ニーロはさわった気がするんだ。もうとても、俺なんかとは比較になるようなもんじゃねえよ」…
 UIPは米メジャー映画のパラマウント映画とユニバーサル映画の配給会社だった前身の社名をCICといった。そこの営業ウーマンだった故高橋美子は「レディ・ジェーン」に良く来ていた友人だったが、独り身の大人に有りがちな脳溢血系の病気で数年前に突然死した。それ以前に労組問題で揺れに揺れていたユナイト映画配給会社が、CICに吸収合併されてMGMも巻き込んで設立したのがUIPだった。ユナイトには71年頃にゴールデン街で親しくなった宮川純一がいた。彼は伊豆七島の新島出身で、下北沢の北口の鎌倉通りを入ったところに島の寮があって、そこの寮生だったから、当然下北沢の縁でより親密になった。ここ数年音信は聞かずどうしているのやら消息を知らない。「レディ・ジェーン」の天井には彼から戴いた『レニーブルース』(74、ボブ・フォッシィ監督)や『ロッキー』(76、ジョン・G・アビルドセン)の原盤ポスターが、色褪せながらも燦然と内装を飾っている。85年に宮川純一は高橋美子と同僚になるのだが,この二人のお陰で俺は洋画関係では相当優遇してもらっていたのだ。「レディ・ジェーン」でのことは置いても、今の季節で言えば、夜明けの北沢川小路の桜、小笹鮨のこと、やはり明け方の市場の中の屋台のセッチャンや大平のことは、今でも記憶に新しい。
 12月16日、『ブラック・レイン』の撮影が再開して松田優作はアメリカに出発した。最初のロケ地はニューヨークだった。先に言えば、一年後に高橋美子のUIPで日本封切りされ、そして11月6日に彼は亡くなる訳で、その祭壇には先述のデ・ニーロと共演映画のオファーの文書が飾られていたのだが,どんな気持ちでニューヨークへ渡ったのであろうことか知る由も無し。12月23日の夜、ニューヨークから帰国の電話を受けていた俺は、西麻布の鮨屋の大寿司ですっぽんと生き血を用意してもらい、成田空港からの車を待っていた。