Flaneur, Rhum & Pop Culture
『最後のダンスステップ(昭和柔侠伝の唄)』はシモキタでこそ美し
[ZIPANGU NEWS vol.72]より
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 1988年5月末ベルリンから帰った早々、早く話を進めなくてはいけない、ライブ絡みの面白い企画が舞い込んで来た。東京FMの知り合いからだった。ライブの実況生中継をしたいということだった。最初は六本木の「インク・スティック」を考えていたようだが,その店舗の屋上に仕掛けた発信アンテナからFMアンテナ塔のある東京タワーまで、空中に阻害物が有ってはならないという条件があった。「インク・スティック」は駄目だったらしく西麻布の我が「ロマーニッシェス・カフェ」は条件をクリアーした。東京FM氏と進行は勿論、誰々に出演してもらうかけんけんがくがく有った後、7月27日、第1回をベルリンでコンサートを観たポルトガルの歌姫マリア・ジョアンとピアノの高瀬アキでスタートした。局始まって以来の実験に満ち満ちた試みだった。生中継だから集録した音は瞬時に聴き手に流れてしまうので,何が有っても取り返しは効かない。と言っても客席からの奇声やくしゃみ等も入ったライブ間を伝えなくては意味が無い。<西麻布の真夜中ライブをそのまま真空パック生中継してしまう、東京FM始まって以来の斬新な企画>は、それで放送時間はウイークディの深夜2:00から4:00まで、月1回に決めた。
 そして2回目は8月31日、出演者はあがた森魚、共演者はベースに渡辺等、ピアノに丸尾めぐみ、ギター近藤研二、そしてゲストに鈴木慶一だった。司会者のわざと『ジェット・ストリーム』を気取ったようなナレーションからスタートした。ウイークデイの午前2時とはいえ、時はバブル時代の真っ盛り、ざわざわ振りに司会者もエキサイトしてくれば当然ミュージシャンは乗ってくる。小一時間経って「蒲田行進曲」や「モンテカルロ珈琲店」のオールドソングになってきたので、俺は「ヨーヨー,シモキタの朝子さんはお元気ですかー、それをやれよ」と冷やかした。するとあがた森魚は一瞬エー?となって、「今のは緑魔子さんのことです」といって次の曲を演奏し始めた。「わたしの名前は朝子と申します。歌はうまく歌えませんが、タンゴならすこし踊れます」という緑魔子のナレーションから始まる『最後のダンスステップ(昭和柔侠伝の歌)』を始めた。場末のダンスホールの一夜を歌った1番好きな歌だった。
 あがた森魚も元々シモキタッ子で、「レディ・ジェーン」を開いた75年にはもう客になっていた。但し、いつも緑魔子と一緒だったから,俺は意識して近づかず話掛けずだった。緑魔子は演劇上の知り合いだったので、2人のあまりにも親密振りに照れていたからだ。後になって渡辺香津美や村上ポンタが言い触らして、エルビン・ジョーンズやビル・ワイマンやユーミンや沢田研二などミュージシャンや俳優の溜まり場になっていった魚料理屋の『佳月』という店に通い始めていた俺だったが、客の多くは地元の旦那衆たちで、その頃その店に芸能人で通っていたのはあがた森魚くらいだったと記憶しているが,そこでも緑魔子と一緒だった。今思えばその1、2年後に発売された「レディ・ジェーン」のレコード棚にもある、あがた森魚の『噫無情(ああむじゃふ)<レ・ミゼラブル>』のアルバム作りの打ち合わせをしてたのかも知れないが、俺を惑わせる親密振りだったのだよ。
 2010年1月31日にそのあがた森魚のライブを下北沢の「レディ・ジェーン」でやる。去年に又やろうよと声を掛けて3回目だ。うわばみのように何でも飲み込んでしまうヴァイオリニスト・太田惠資とタンゴ界で八面六臂の活躍するベースの東谷建司の3人でやる。今度はどんな楽曲を用意しようとしているのかは知らないが,用意していようがしていまいが、「最後のダンスステップ」を歌わずにライブを終わらせるわけにはいかないのは決まっている。下北沢で生まれた音楽を30数年後の下北沢でやるなんて、誰にでも出来ることではなくて、なかなか素敵なことじゃないか。東京FM中継からだって22年振りってことになる。