Flaneur, Rhum & Pop Culture
たかが「ロニィ・スコッツ」思い起こす出来事
[ZIPANGU NEWS vol.70]より
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 ここ3年強広島のホテルで年6回くらいのペースでコンサートの企画制作をしている。コンサートと言っても所謂ホテルをイメージするものとは一線を画し、舞踏や舞踊、ライブ絵や詩の朗読とコラボレーションするステージなので、中々難しいが面白がってやらせてもらっている。そうでなければ受けていなかっただろう。俺の企画を受けるホテルも潔いと言うか偉いと言わねばならない。
 去年の4月、カルメン・マキのライブを終えた打ち上げの後、企画の度に隣の呉市からやって来る出席率100%の先生で、いい音探しの旅人仲摩武二郎と、女性サックス奏者でバーのママをやっている宇野ゆりかにあおられて、深夜ホテルを出ようということになった。連れて行かれた先はジュゲムと言うロック・バーだった。テンガロン・ハットを冠ってカウンターに立つルーシィと言う怪しげなママが気に入って、その後何度も足を運ぶようになった。原マスミ、白崎映美、坂本弘道だったか、何度目かの太田惠資だったか、梅津和時、リクオの時だったか忘れたが、カウンターで酒を飲んでいたら、「ちょっと聞いてよ」と言ってDVDをかけた。2007年の11月にやったジェフ・ベックのライブ映像だった。個人的には特に傾倒していた訳ではないが、独特の奏法も含めて音楽にこだわり孤立の道を行くロック・ギタリストの先人はかっこ良くて、首を傾げる所のあるエリック・クラプトンや誰よりは好きだった。するとベースは小柄な女の子だったが、父親みたいにジェフがその子に近寄って挑発すると、笑顔を浮かべながら逆にジェフをあおるのだった。ルーシィはそれを俺たちに見せたかったのだ。ジェフが発掘したと言う23歳の娘としか言えない愛くるしいタル・ウィルケンフェルドの技量に目が点になった。そして何ヶ月後、DVDを買った俺は、ロンドンのライブハウス「ロニィ・スコッツ」のライブだったと知った。200人足らずの客席だった。音楽を大事にして見る見られるの関係を成立させるのであれば正しい大きさで、今や世界の音楽はおかしくなっているのだ。
 当欄でここ3、4号1988年のヨーロッパ紀行を書いているが、5月25日はロンドンにいた。ロンドンはそれほど行きたかった町ではなかったが、パリからすぐだし、あらゆる近代都市生活を現出させた1920年代にこだわる俺にとって、ロンドンのサボイ・ホテルは特別だった。それ以前の宿泊のためのホテルから、異文化のジャズを取り入れて、外食という風習を定着させて、異人種とそれを楽しむ文化の変革を担った元祖だった。またサボイ・ホテルのアメリカン・バーは世界で最初のカクテル・ブックを発行していてバーマンにとってはバイブルだった。と言ってもホテル内で充足するほど富裕でいられるはずも無く、当然その振りも窮屈になる訳で、丁度映画の関係で来ていた脚本家の筒井ともみとヘラルド関係の鍵谷某女を誘って、「ロニィ・スコッツ」に出掛けた。
 当夜の出演者はピアノのシダー・ウォルトン・トリオだった。「ロニィ・スコッツ」はロンドン1のライブハウスの触込みで、スタッフは黒のスーツでエシュタブリシュな雰囲気を漂わせていて、多少凝る感じだったが、俺にとって問題はシダー・ウォルトンだった。共演者は忘れたが知的な物腰から繰り出す強靭なプレイを聞きながら、俺の思いは過去にさかのぼるのだった。1961年、16歳になったばかりでジャズを聞き出して半年ほど立った頃、入れ込んでいた。ビッグなジャズ・メンは広島を越えて博多に行ってしまうのに、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが広島に来るからだった。ジャズの何も分からない小僧が、強烈な刺激を“生きろ”と言う暗号に受け取って厭世的な気分を排除しながら、勉強や器械体操より何よりジャズを優位に置いていた青かった時代だった。初のコンサート体験に狂喜して楽屋を襲いサインをもらった。ウェイン・ショーター、フレディ・ハバート、カーティス・フラー、レジー・ワークマン、そしてピアノがシダー・ウォルトンだった。
 広島のバーで見たジェフ・ベックの映像で、シダー・ウォルトンの「ロニィ・スコット」に繋がり、ジャズ初体験まで遡るとはお釈迦様でも気がつくめい。