Flaneur, Rhum & Pop Culture
東ベルリンの奇妙な散歩
[ZIPANGU NEWS vol.68]より
LADY JANE LOGO











 前回に続いて又々ベルリン体験記の続き。1988年5月20日、8日間いたベルリンの最後の日だった。翌日はデュッセルドルフ行きの飛行機に乗る予定になっていた。前々回で触れたメールス・ニュージャズ・フェスティバルに行くためだった。朝、ホテルからベルリン在住のピアニスト高瀬アキに電話を入れて遅い朝食を取りながら、滞在中色々とお世話になったベルリン印象のことなどを喋っていて、「最後の1日だ、やっぱり行こう」と、その日の行動を決めて彼女と別れた。東ベルリンの探訪だった。当時東ドイツは旧ソヴィエト政権の支配下にあって、市民生活は厳重な監視下にあった。ベルリンはその東ドイツの中にあり、第二次大戦の戦勝国の分取り合戦の果て東と西に分断されていた。
 西ベルリンから東ベルリンへの入り方は1番安全で安心なのが定期観光バスだが、そんなものを俺が利用する訳がない。徒歩だと〈ベルリンの壁〉の東側にあるポツダム広場を、南に下って左に大きく廻った検問所チェックポイント・チャーリーが有名だったが、時間の節約もあったので、Sバーン(国電)で東ベルリンに入った1駅目のフリードリヒ・ストラッセ駅の検問所から入ることにした。まず地下道を降りて行き最初の検問所で、パスポートを提示して5西ドイツ・マルクを支払い、1日(24時間)ヴィザを取得した。次に25西ドイツ・マルクを東ドイツ・マルクに両替する入国義務がある。東ドイツ政府は意地を張って東西マルクを同価値だとしているが、西ベルリンの銀行でも1西ドイツ・マルクは4東ドイツ・マルクに両替できる。そうやって西側から東ドイツ・マルクを持ち込もうとして検問所でバレると、罰金や刑務所行きが待っている。東ドイツは喉から手が出る程外貨が欲しい訳だ。25西ドイツ・マルク、つまり東ベルリンでは1万円弱の金を握りしめて晴れて東の国へ第1歩を踏んだ。
 晴れてと言ったが、晴れてないのだった。嘘みたいな話であるが、あれだけ西ベルリンで晴れてた空が、駅の地下道から出るといきなり曇天だった。ヨーロッパでも北に位置するドイツのベルリンにとって、5月の季節はやっと陽の光を浴びて、テラス・ランチやハイキングに興じる季節なのだ。同じベルリンの空がたった数10分で灰色に変色するとは!燻んだ焦げ茶色や鼠色のビルというビルの色や、その窓の多くが黒く塗られていたりガラスが割れたままだったりする異様な光景が、五感の記憶をそのようにさせたのかもしれない。だが灰色の街とはいえ、日中であるにも関わらず人影さえまばらというのは事実だった。西ドイツのフリー・ジャズの作曲・ピアニストであり、ヨーロッパの中枢を集めた「グローブ・ユニティ・オーケストラ」のリーダーであるアレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハを始め、サックスのペーター・ブロッツマン、ベースのペーター・コワルト等数多くの西ドイツのジャズメンとの交流があった後、東ベルリンからわが店にやって来たトロンボーンのコンラッド・バウアやヨハネス・バウアのことが思い出された。こんな環境の都市からやって来たのかと。あれッ?よく出演していたギタリストのハンス・ライヒェルは東西どっちだったっけ?
 フリードリヒ通りを南へ歩くとウンター・デン・リンデン通りだ。東西に走る大ベルリンの象徴だった通りを西に歩いた。ブランデンブルク門が見えて来て、すると急速度で門に近づくジープが視界に入った。検問に掛かった男が奪い取られたカメラから、フィルムを抜き取られている現場を目撃した時は、俺も相当近づいていたので瞬間目を逸らすしかなかった。オットー・グロテヴォール通りを南に曲って進んだ。すると道を塞ぐようにして巨大な土が盛り上っていた。帰国後調べるとヒトラーが自殺した総統本部の防空壕跡だった。そこへフィルムを取られた男がやって来て、「想い出の記録が全部無くなった」と泣きべそかいたので、俺は写真を撮ってやった。日本人の若者だった。東方の壮麗を誇ったベルリン王宮は、人民が集まる只のマルクス・エンゲルス広場になっていた。画廊で暗い絵を観て安い飯を食うと、夜も更けてきてマルクは殆んど残っていた。パブのような酒場に入ると女が俺の方をチラチラ見た。お替りをしてもチラチラ見続けていた。俺の方じゃなく俺だと思ったが、罠かもしれないと思わせるのが東ベルリンだった。結局、24時間もゴミとなる東ドイツ・マルクも充分余らせたまま、西ベルリンの深夜のバーで、1人中途半端な溜息をつくのだった。