Flaneur, Rhum & Pop Culture
あの日も映画の灯は点らなかった
[ZIPANGU NEWS vol.65]より
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 前号で書いた続きになるが、ピエール・バルーのライブ・コンサートを終えたアフターアワーの時だった。「ロマーニッシェス・カフェ」の当夜の出演者だった宇崎竜童や客だった石田えりの席に、近場の「インクスティック六本木」で同じくライブを終えた原田芳雄とバンド仲間や、客だった松田優作やバンドのEXのメンバーの総勢15、6名が襲ったのだった。インク組のパワーに押されて、ライブの余韻はおろか天井に吊られたミラーボールまで廻ることになり、遂にはディスコと化してしまった。一般の客もそれだけの面子の〈芸能人〉が仕掛けた大人の遊びに簡単に巻き込まれたのは当然で、お蔭で翌日はひどい疲労度が残った。
 翌日の1988年4月9日の昼間、中央線の中野駅前で雑誌ぴあの於保義教と待ち合わせをしていた。中野にある丸井本社の不動産部の部長と会うためだった。俺は数年閉じたままでいる下北沢丸井を改装したらこうなるという下北沢カルチャービル構想を盛り込んだ竣工図面を抱えていた。何というドンキホーテ振りだ、一方的に他人の建物を建て替える考えがあるので聞いてくれという話なのだから。それでも言い訳を言うと、演劇とロックのライブハウスに偏向している下北沢の文化施設に一石を投じるためには、大型店化構想を歩む丸井の展開からは対象外となって、倉庫として眠っていた下北沢丸井をカルチャービルに建て替えて、下北文化発信基地にするのが1番の妥当策だと考えていたからだ。俺の意を受けてくれたぴあの矢内廣が、当時チケット丸井とチケットぴあで繋がりを持っていた関係で、采配を振ってくれたのだった。
 88年といえばバブル真ッ盛りの時代。屋根付きの野球もできる超大型劇場の東京ドームができて、こけら落しはマイク・タイソンがトニー・タップスを2ラウンドでKOしたが、不評を買った。白いカモメを社のシンボルマークにして、新卒の会社訪問のスタイルはリクルート・ファッションなどと言われていたのに、与野党の国会議員を始め無差別に未公開株をバラ撒いて、政財界を巻き込んだ一大疑獄事件があった。象徴的だったのは、六本木のド真中にバブルの申し子というしかない派手で豪奢なディスコが出来たが、その「トゥーリア」の重さ2トンの照明器具が、天井から落ちた出来事だった。戦う企業戦士のためのドリンク剤リゲインを製薬会社は販売して、フィットネスと瞑想を繰りかえすアメニティ&リラクゼーションのリッチな都市生活をあらゆる雑誌が特集を組んで編集した。要するに、物心両面にわたって欲望は金で買えということだった。世界の最大にして最先端都市東京の、こんなエセ21世紀型ライフスタイルを、国の行政が大いにあと押ししたのが、週休2日制への実施だった。
 話を元に戻すと、そんな時代だったにも関わらず、下北沢のバブルはちょっと変っていた。4、5年前の83、4年の中曽根政権下で建築法が変更になって、殆んどが地下ありの3階建て、中には4階、5階の商店街になっていった。建物が圧倒的に変化した訳ではない。2階を住居にした個人商店がこぞって無くなり、小規模テナントビルになったことが大変化だった。人気の街下北沢はバブル以前から地価、家賃、特にテナント料の高騰が続いていたから、2代目となった彼らは家賃収入で暮らす不労所得者となって、他所に移り住んだ。そして似たような居酒屋チェーンやドラッグストア系、ブティックチェーンに占領された。大人が足元から頭まで服飾品を買える店は無くなった。最後の頼りだった丸井も閉店して、大人の服飾店は下北沢から1軒も無くなった。
 かつて、若者は大人になっていくための衣服は、割賦払いをセールスポイントにしていた丸井で買い求めた。その丸井が若者に媚びていった街シモキタの若者に相手にされずに閉めていった。88年ともなれば、南口商店街に面したその建物が閉ざしたまま数年経っている訳で、通るたびに気になるのは当り前だった。ましてや下北沢には何処にも余地は無い。2スクリーンの映画館に1館のパフォーミング空間、そしてそこへ集える人たちへの素敵な飲食の追い訴ちを夢想したのだが、そううまく行かないのが世間だった。