Flaneur, Rhum & Pop Culture
『ネコビタンX』で縄張りを始める。
[ZIPANGU NEWS vol.56]より
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 1987年はバブル街道真っしぐらだった。「レディ・ジェーン」のライブでは、アメリカ人のパリっ子マイク・エリスがソプラノサックスを空中に回転させながらオーネット・コールマンを吹きまくり、「ロマーニッシェス・カフェ」では、ベルギーからピアニストのフレッド・ヴァン・ホーフが、ミニストリィ・オブ・フレミッシュ・コミュニティの協賛を得てやってきた。フレミッシュとはフラマン或いはフランドルという地名のことで、フランス領フランドルもあればベルギー領フランドルもあってややこしい。属し方が一方的に決められている人生の悲しみを感じたが、その時初めてそのことを知った。9月だった。その年の9月で忘れられないのは、斎藤ネコ絃楽カルテットが初めて「ロマーニッシェス・カフェ」に登場したことだ。略称ネコカルにとっても初のライブだった。リーダーの斎藤ネコは「レディ・ジェーン」には数年前から橋本一子や板倉文などと出演していたのだが、下北沢から西麻布へと縄張りを拡げたのだった。そのネコカルのマーキングのスペシャル・ゲストは、人ぞ知る戦後のタンゴ界をオルケスタ・ティピタ・サンテルモを率いてリードしてきた池田光夫だった。中森明菜やあがた森魚、奥田瑛二などにもその腕を貸していた〈バンドネオンの豹〉だった。当然タンゴの名曲がプログラムに散りばめられ、その中に異質感漂うオリジナル曲『ネコビタンX』(確か渡辺香津美の作曲だったはずだ)が主張を込めて割って入ったという風情だった。これを期にネコカルのマーキングはますます増長していった。そして21年目を迎えたネコカルは、下北沢に戻って「レディ・ジェーン」で2回目のライブを先日終えた。デビューとなった当時の俺の書いた紹介文によれば“美しさもさることながら、その乱れ振りで最近とみに活躍の場の目立つ斎藤ネコの弦楽四重奏”となるのだが、弦楽四重奏どころかバンド総体としても21年続くなどはめったにある話ではない。
 そんなことを見届けた87年の9月21日、両親の故郷でもある広島市内のお寺に、おやじを始め何代か先祖が眠る遺骨を引き取りに出掛けた。広島から東京に引き取って暮らす母が、年老いて墓参りにも行けなくなったので、東京に墓を移すということになったからだった。もの心ついてからその日までの長い年月お世話になった清岸寺に別れを告げ、お骨を抱えて帰路に着いた。途中下車した大阪では、ホテルの部屋にほったらかして朝まで泥酔したりとかはあったが、骨は無事下北沢のわが家の仏壇に供えられ、母は喜んでくれた。そして俺は故郷の広島に、思い以外のすべてのものを失くした。ある個的事情で1日も広島に居たくなかった思いはここに遂げられたはずだった。
 愛憎云々に関わりなく、人は誰も故郷を選べない。下北沢に遊び暮らして約40年になる。故郷の広島の何倍の年数である。生活の場であり、遊びの場であり、創造の場であり、戦いの場である。自らで選んだ街である。だから基本は愛している街なのだ。そう思いたいのだ。ところが10年位前から度々、下北沢脱出計画を妄想している自分に気付くのだ。そして何処かの街を思い浮かべては消去法でダメ出しを出していく。精神の在り処を身体で特権化する街を捜す。と、何処にもないのだが、以前は広島を真っ先に消していた、というより問題外だったはずの憎むべき広島が、ここ2年精神の周りを徘徊し出しているではないか。何ということだ。骨を広島から東京の芝のお寺に移骨して、今上の縁故を切ったはずの21年間、この後に及んで今生の暇乞いを故郷で遂げようとでも思っているのだろうか。人間とは浅はかな者である。ネコのようにマーキングをして人間社会に仮住まいすれば良いものを、業というより世俗のしがらみを纏っているとは。
だから今日もネコの後を着けて、ライブをプロデュースするのだ。仮住まいの衣に着替えるために。