Flaneur, Rhum & Pop Culture
「黄金詩編」の北沢川の流れに沿う
[ZIPANGU NEWS vol.51]より
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 1986年12月、望月辰夫ダンス・リサイタルにヤクルト・ホールへ出掛けた。望月辰夫とは「レディ・ジェーン」に同じダンス仲間で常連客の久保洋子が連れて来て仲良くなっていった。当時のモダンダンサーとして彼はその身体能力、表現力、美しさに於いて突出していた。在日インド人ダンサーのシャクティと共演したり、先の久保洋子の舞台にゲスト出演したり、よく劇場に足を運んだ。その彼がモダンダンス舞踊家として、文化庁の研究生でアメリカに渡って帰って来た90年頃だったと思う。〈アメリカン・モダンダンスとドイツ表現主義舞踊の比較を通して、我が国のモダンダンスを展望する〉とした研究課題を肉体で思想化し、プリンシパルの称号を持ち帰り、ダンサーと日本ダンス界を驚かした頃だったと思う。因みに彼は今、新国立劇場で後進の指導に当っている。或る夜、「僕の生徒です」と言って望月辰夫は「レディ・ジェーン」にやって来た。その生徒は彼より母親ほどの年の離れた老婆だった。いや正確に言うと、顔は何処かで見たことのある老婆だったが、背筋がピンと張って五体は毅然としていた。
 その人萩原葉子は20年(大正9年)生れだから70歳を越していた。正に七十の手習いだった。3歳にして母に男をつくって家出された葉子は、11歳になって父・萩原朔太郎と母代わりの祖母に連れられて下北沢に引っ越してきて2年住んだ後、代田1丁目で多感な青春時代をおくった。05年85歳で亡くなった時も近所の梅ヶ丘に住んでいたのだから、余程沢と谷と武蔵野の面影を残す下北沢周辺に愛着と思いがあったのだろう。朔太郎は唯一の小説「猫町」で、主人公に北沢・代沢・代田の賑やかな住来とわい雑な想像をたくましくさせる暗所、丘陵と沢谷と北沢川を歩かせている。帰路は鎌倉通りを南へ代田へと向うのだが、この代田1丁目の家のすぐ隣には鉄塔があった。その駒沢線61号という巨大な鉄塔が、幼い葉子の心を不安にさせた。「レディ・ジェーン」で酒を飲みながら俺に言った。「何万ボルトの電流が走っているでしょ。そんなとこの側に住むなんて信じられなかった」と。実は葉子は幼少の頃から、祖母の虐待と父の放任によって凄まじい生立ちをくぐってきたことは世の知るところだったし、葉子自身が76年、56歳の時に書いたドキュメンタリーというしかない小説「蕁麻(イラクサ)の家」で自己告白している。父に似ない不器量と母に似たインランを祖母のいじめで刷り込まれた少女が、「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした」(「蕁麻の家」)と暗い予感に震えるのは当然だった。人間は苛烈を過ぎると愛着も湧くものなのだろうか?
 少女の心に幾ばくかの安らぎを与えたのが、「蕁麻の家」のすぐ南下方を東西に流れる北沢川だった。北沢川に吸い寄せられるように住まいした当時の文壇・画壇の面々には、斎藤茂吉、中村汀女、横光利一、石川淳、坂口安吾に田中英光、宇野千代と東郷青児、田村泰次郎と多士済済枚挙に暇がない。不幸な死をした森葉莉も忘れない。葉子の屈折した心にとって、北沢川と川面に乱反射する文学の水しぶきこそ生きる上で励みになったが、殊のほか心寄せたのは、父朔太郎を師としその妹と熱愛した三好達治の存在だった。彼も馬込から師を追って代田1丁目の住人になっていた。「蕁麻の家」の10年前の66年に葉子が書いた「天上の花」の副題は“三好達治抄”だ。
 73年の春、北沢川に面した代田1丁目の秀圭荘に住んでいた俺は、暗渠になる直前の泪橋(秀圭荘住民で名付けた)を渡って北沢の人になっていった。70歳を過ぎて、まるで体内細胞を入れ替えるように、モダンダンスに打ち込みフラメンコに夢中になった葉子と比ぶべきもの無しで、いまだに下北沢人として生を甘んじている。