Flaneur, Rhum & Pop Culture
『暗い日曜日(ソンブルデマンジュ)』は歌わない
[ZIPANGU NEWS vol.49]より
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 1986年6月、ライブをスタートさせた「ロマーニッシェス・カフェ」に、音楽ジャーナリストの木立玲子がピアニストの柴野さつきを連れてきた。当時20世紀初頭のフランスの作曲家兼ピアニストのエリック・サティが提唱した〈家具の音楽〉等に魅せられた時代が、サティ・ブームを作っていて彼女も“サティスト”の何本指かの1人とされていた。木立玲子はどうやら俺に彼女を紹介して「ロマーニッシェス・カフェ」に出演させたかったらしい。勿論俺はその意を汲んで早速出演のための段取りを整えた。サティの研究家で詩人であるJ・J・バルビエにパリで師事していながら、この正系の中の異端のピアニスト(故にサティストと言えるのか)は、サティは元より、ジョン・ケージのプリペアド・ピアノからミニマルのパイオニア、スティーブ・ライヒ、アメリカン近代音楽のフォスターからラグタイムまで、多様な方面に実験の触手を延ばして、脱ジャズを思考していた俺の感情を楽しませながら常連出演者になっていった。さて、そんな一筋縄でいかない柴野さつきを連れてきた木立玲子のことだ。
 85年の暮れか86年の初めだったと思う。当時「アエラ」のチーフ・ディレクターをやっていたデザイナーの故東盛太郎は、75年の「レディ・ジェーン」のオープン以来、看板からポスターやロゴマーク、コースターから箸袋まで総てのグラフィック・デザインをまかせていた友人がいて、当然「ロマーニッシェス・カフェ」が発刊を始めた冊子のデザインも彼の手によるものだった。その東盛太郎が連れてきた木立玲子とは忽ちうまが合った。思ったことを直截に発言する人はきついけど男女を問わず好きだったし、一見冷徹に見えても真摯さと情熱が感じられていい気持にさせる。大体音楽に関わっている者同志といっても、音楽は海ほど広いが海ではない。人種、民族、国家による植民、掠奪、洗脳の歴史を経て如何ようにも変容していく。姿をうまく変えた偽(人が為すと書く)が横行する。音楽が音楽として呑気に自立している訳ではない。そんなところを2人で突ついて酒の肴にしながら音楽を探した。リンゼイ・ケンプ舞踊団のジャン・ジュネの小説「花のノートルダム」を舞台化した「フラワーズ」や、現代ドイツの圧倒的歌姫ウテ・レンパーのステージなどが鮮明に思い浮かぶ。些か3年弱の間だった。
 88年10月、彼女はフランスへ渡った。フランス国営ラジオ・フランス・インターナショナルで、日本人向けに番組を制作するプロデューサー兼ジャーナリストとしてだった。
 97年、左胸に異様な痛みを憶えて検査をした彼女は、乳ガンと診察されて手術をするとともに、10年間活動したラジオ・フランスを辞めた。翌99年、〈ガン治療先進国〉のフランス式乳ガン医療の現場を、ジャーナリストの眼を持っては日仏比較論を検討し、私的体験としては自らのガンを〈人生〉の一部において、1冊の本「フランス流乳ガンとつきあう法」を出版した。パリからの彼女の電話はとても涼しげだった。「わたしは先生に言ったのよ。パーティに出掛けるから、カクテルドレスが着れるように手術してね」と。
 「下北沢がのっぺらぼうになる」ことに反対して再開発問題に取り組む市民団体が、06年1月18日、世田谷区庁舎に音楽デモをかけようとしていた。その2日前の16日、彼女からの返信は次の通りだった。『大木さん、がんばれ、がんばれ。わたしが昨年サンルイ島からヴァンセンヌに引っ越したのも、アメリカ資本がサンルイ島を買い始めてどんだ投機ブームとなり、もはや人が住む街の面影が一切消えうせたのと、それに便乗した守銭奴ユダヤ人大家の訴訟問題に巻き込まれたせいでした。・・・ともかく生き延びましょう』と。木立玲子の最後の便りだった。―3月9日、パリから訃報が届いた。
 死者に励まされて俺はまだ生きている。