Flaneur, Rhum & Pop Culture
曲名の無い音楽の懲りない始まり
[ZIPANGU NEWS vol.48]より
LADY JANE LOGO











 1986年の年が明けた。このエッセイで何回か触れた、オープンして11月、12月と前年2ヶ月間バー&レストランを開店させた「ロマーニッシェス・カフェ」のことだが、やっぱりライブ演奏をやりたくなった。

 店の顔としては、まずバーで突っ張ろうというのがあって、胃袋の問題もあるので食事を出そうと考えて、バー&レストランになったのは平凡といえば平凡だったが、そんな中でも創作性を追求するのは相当大変ではあった。それとインテリア・デザイナーの内田繁の何点も欲ばらず的は絞った方が良いという進言もあって〈ライブ〉のことは口に出さなかったのだが、2、3ヶ月を経た新年1月末頃には我慢出来なくなった。そのことを今思うと何点かがあったのだ。その理由の第1は、姉貴店「レディ・ジェーン」で繰り返してきた実験音楽ライブを、広くなった空間でやらない訳はない。第2に、俺自身音楽を取り巻く状況や音楽の流れ、ライブの有り様に反揆と危機意識を持っていた。第3に、店の個性をより突出させたかった。特に当時差別意識を持っていた六本木や西麻布で、ちゃっかりおジャズ・ライブなんかやってられるかという気持もあった。

 2月になって、下北沢の隣の池ノ上にあるヤマテピアノに連絡して、グランドピアノの購入相談をした。内田繁の紹介で音響工学の先生の指導を受けた。3月上旬に銀座の松屋デパートで行われた「30代の少壮建築家展」に、下北沢の我が家を設計したその模型を出品していた建築家の石井勉に頼んで、地上入口に鉄製の看板塔を設計してもらった。月々のプログラムの差し替えが工夫されたものだった。音楽上の関わりでは、水島早苗賞を受賞した阿川泰子のパーティにさえ出掛け、映画の立ち上げに一寸と関わった「それから」の音楽をやった梅林茂の、アカデミー映画音楽賞の受賞ライブ・パーティに出掛けたのも、色々なライブ・コンサートを知っておくことと、アメリカン・クラブやインク・スティックという近隣の箱物も知っておくことだった。そして3月1日、店の地下への階段が折り返しているために、一番心配だったグランドピアノの搬入のテストをした。グランドピアノが入るか入らないかは、ロックをやる訳ではないので重要なことだった。階段の折り返しを仕切る壁が、人の頭程の高さで吹き抜けになっていたので、そこをクレーンで持ち上げて通せば可能だということになって、まず第1段階を突破した。具体的にライブに向って準備してオーケーになった。ところで階段に折り返しがあったのはその分地下が深かったということで、その分天井が高かったということでもある。ミュージシャンも客もスタッフも気分良く、当然音響にも効果的だったのだから迷惑な折り返し階段さまさまである。5月に入って、渋谷のヤマハでPAシステムを決定し、スピーカーの取付け工事と共に、ヤマハのエンジニア、販売部、フリーのミキサーの新居章、デザイナーの内田繁の立ち会いで、サウンド・チェックをした。ピアニストの橋本一子とベーシストの藤本敦夫が情で来てくれて、実際に演奏をしてくれた。そして、音響工学の先生のデザインで最後の吸音工事をやり終えた翌日、5月17日、山下洋輔のソロピアノでライブの柿落しをした。ミュージック・チャージ2,000円だった。

 最初に強がりを言ってはみたものの、プログラムも中心的には「レディ・ジェーン」で展開している変則デュオやトリオによる、フリー・ジャズ〜インプロヴィゼーション〜ノイズ・ミュージックだったので、港区のテレビ朝日通りに面した西麻布で、殴り込みを掛けたのかと誤解される恐れは確信犯的にあった。メイン・メニューとは少しずれた山下洋輔を第1弾にしたものの、それは不安を抱えながらのライブの船出だったのですよ。懲りない面面だったのですよ。