Flaneur, Rhum & Pop Culture

自主企画コンサートを準備する。
[ZIPANGU NEWS vol.28]より
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 1984年の年明け早々、12月にニューヨークに出発する前に、仮契約を済ませてあった下北沢本多劇場と本契約をかわした。75年にオープンして79年からジャズ・ライブをやり始めた実験スポット「レディ・ジェーン」が、というより殆んど俺のワンマン発想なのだが、初の単独自主コンサートを本多劇場で企画した。
 ジャズ・ライブと言ったが、狭い空間を逆手に取ったミュージシャン泣かせの変則デュオやトリオ、ジャンルも大塚まさじや三上寛といった東西のフォーク歌手に、古澤良治郎や高橋知己のジャズメンをセットする、といった正統派に言わせると邪道を行っていたので、その成果を世間にちょこっと問うてみる気になった実験的な試みのコンサートだった。「レディ・ジェーン」の〈実験的〉ライブを最も数多くこなしていたのが、高瀬アキと橋本一子の二人の女性ピアニストだったので、自然と彼女たちそれぞれを中心としたグループ2つのワンナイト・コンサートを思い立ったのだ。ところが前年のこと、申し入れすると劇場の空きは一日も無かった。しかし下北沢で生んでいった実験的ライブの集約であるから、どうしても下北沢でやりたかったし、それにはやはり本多劇場だった。
 そこで粘りの交渉が始まった。女性二人を主軸にした企画故、3月3日の桃の節句を指定した。3月3日は土曜日だったので、下北沢ならオールナイトで充分いけると思ったからだ。それを提案すると劇場は諒承した。だが問題は、占有権、既得権を持っている当日の劇団から許可を戴くことだった。中央の舞台はバラシて奥はそのままホリゾント替りに使うステージングにするということ。そこで次のハードルに向って交渉を始めた。
 3月3日前後上演予定の劇団は五月舎といった。この五月舎とは妙な関係があったのだ。67年、当時岡田英次と木村功の二大俳優をボスにしていた劇団青俳の附属俳優研究所に、大学に在籍しながら俺は二期生で入所した。一期が蟹江敬三で、ずっと年上ながら石橋蓮司はまだ劇団に入っていなかったから俺は先輩になる?その研究所の所長を勤めていたのが、本田延三郎という恐い人だった。カリキュラムの中でも、俺はバレエや日舞はこそばゆかったし、講義も面白くないと判断したものはどんどんさぼって、ゴダールや、トリフォー、ワイダやカワレロビッチの映画に通い詰め、休憩時間には3、4歳年下の同期生を呼びつけて、「無遅刻無欠席も悪かねえけど、表じゃ面白いもの続々やってるぞ。教えられるより学べだ。そんなことで上手な俳優になれるか知らねえが、いい役者になれる訳ねえだろ!」と恫喝したりしてたものだから、よく所長の本田延三郎には呼び出され説教されていた。つまり83年当時も、劇団青俳を移り五月舎を主宰していた本田延三郎は俺のことを良く憶えていてくれたのだ。人との出会いは偶然というなの必然だろうが、何が災いで何が幸をもたらせるかするから面白い。
 84年3月3日(土)、開演24:00、終演4:30。高瀬アキ・グループは梅津和時、井野信義、楠本卓司、高田みどり。高柳昌行がある事情でリタイヤになり残念だった。橋本一子グループは、渡辺香津美、坂田明、林栄一、藤本敦夫、木村万作。題して『春一番JAZZ』はこうして準備が始まった。黒田征太郎にイラストを、K2にデザインをお願いした。広告スポンサーにタバコのKOOL、楽器提供ミューズ音楽院、酒協賛サントリー。チケッティングは当時はまだ各有名プレイガイドだった。春一番を吹かせるために我武者羅にふるまうしかなかった。