Flaneur, Rhum & Pop Culture

マンハッタンひとり弥次喜多
[ZIPANGU NEWS vol.26]より
LADY JANE LOGO












 下北沢からニューヨークの二日目、といっても前夜の惨々な洗礼で就寝は4時半だったので、初日のようなものだった。
 1983年12月5日月曜日の昼、ワシントンスクエアー・パークに面して建つアール・ホテルというチープなホテルで、住居替りに使っている奴が何人もいた。
〈今でもあれば、名をワシントンスクエアー・ホテルに変えているはずだ。〉
 グリニッジ・ヴィレッジのその辺りを興奮気味にブラブラ歩きして、かつてボブ・ディランを初めヒッピーたちの伝説の溜り場だったカフェ・ラジオを見つけて入る。
 紅茶で何処に行くか作戦を練る。と言ったって行く所はまずリトル・イタリーにチャイナ・タウン、少し戻ってスーパーナチュラリズムの鉄彫刻家の大下寿馬宅のソーホーの倉庫を訪ねた。
 住居と一体したアトリエの広いこと、そこにギャラリーへの出品を待つ机大の鉄作品が散在していて再び俺を驚かした。
夜になってライブを聴きに、ブレッカー兄弟がやっていた7thアベニュー・サウスに行く。
 8時開始とヴィレッジ・ヴォイスにあって10時に行ったのにまだ演っていなかった。
 ニューヨーク・タイムを実感した。
 出演は俺の好きなC・ヘイデン&ミュージック・リぺレーションOrchだったが、当夜は今いちだったのは何だったのか?
6日(火)昼起床、雨。
 ベーシストのTM・スティーブンスの彼女のターコから電話。
 午後3時、食事と本屋、レコード屋に行くが、量の多さと無造作な整理に辟易したと思えば再び降り出した雨のブロードウェイSTのアンティーク・ショップ街をビショビショニなって遊歩するうちに暴風雨になり、ホテルに急いで引き返した。
 夜8時、文化庁の留費生だった舞踊の黒沢美香に会うためシャワーでリフレッシュして出掛けた。
 ソーホーを抜け東由多加のキッドブラザーズが「黄金バット」を公演していたアル中の街バワリーの劇場ラ・ママを訪ねて、更にロー&イーストに行くとインド料理店街に目指すミタリがあった。
 ビールとマティーニの後、極辛のカレーに別注文のソースを加え様々なドレッシングを調合すると更に辛く、一人前で二人満腹、当時初のカレー体験だった。
 表に出ると路上でナイフを出されたが、離れて歩いていた美香が振り向いて声掛けてくれたので助かった。
 デジャフティフ用にラッシュライフに行く。
 元イラケレのパキート・デリビラが陽気なジャズ・サンバを演っていた。深夜の路地は突風が吹き乱れ、風がナイフの様に頬を切り、看板が豪音立てて崩れ落ち、ゴミは空中を舞い散っていた。
翌7日(水)、朝九時から隣室の工事の音で目が醒めた。
コンクリートをはつる凄い音だ。
 フロントに冗談じゃないと文句を言うと、鍵を渡され211号室に行く。汚い!採光無し!ラジオ無し!
 工事のオッサンに聞くと今日はおしまいと言う。
 金鎚の音ぐらい辛抱できると、初日にヒーターが切れた元の部屋に戻った。
 昼過ぎに見つけておいた安中華店で飯を食う。兎に角アメリカンに比べれば余程ましな味だ。
 遅い午後五番街を北上してエンパイア・ステート・ビルの展望台に登ると、ブリザードもかくやの烈風が顔面を殴り続ける。
 格闘しつつ夕闇を待ち続けていると、淡い太陽に替って南のピカデリー・パーク辺りから、整然と波状的に瞬間的に、ドミノのように街に明かりが灯った。
 感動で凍える身体を忘れ涙が出そうになった。
 あッ、あれはこの前M・デイビスが200ドルコンサートを演ったラジオシティ・ホールじゃないか!