Flaneur, Rhum & Pop Culture

映画と舞台は違いで観てた一昔
[ZIPANGU NEWS vol.147]より

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 一介のバーの店主である身に、いつ頃から映画の試写状が各映画配給会社や宣伝会社から送られてくるようになったのか、店は1975年1月オープンなので、40年を越える古い年月だ、当然もっと古い映画界の友人もいた。店内の天井には当時の映画ポスターが貼ってあるが、オープンした時の内装には無い。多くの映画人が来店するようになって、貰い貯めた10年間位のポスターから選んだのだろう。映画音楽やキャスティングにはたびたび協力したことはあるが、映画関係者ではない。と、つべこべ言うより早い話しが、表現ジャンルで一番好きな映画が、あれこれしかもいち早く観てきたことを言いたかったのだ。そして配給会社の攻防は笑って済まされないものがあった。
 特に洋画の日本国内配給会社の趨勢は凄まじかった。今年2月にはパラマウント映画とユニバーサル映画を配給していた、パラマウント・ジャパン合同会社が閉鎖した。この会社はUIPが2007年に閉鎖したことを受けて、設立した会社だった。1971年に設立したUIPはユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズの略で、日本ユナイト映画とCICが合同した会社だった。合同したと言っても、旧両社の全員を社員として救い上げる訳ではなく、新社の都合で切ったり採用したり合理化を計ったから、生命・財産に関わるとして、長く組合闘争が続いていたこと、敢えて言えば、甘い汁を吸ったり裏切ったりした上司がいたことが、今も鮮明に記憶に甦ってきた。そしてそんな闘争の渦中に配給された映画の原版ポスターも、バリバリの状態で天井に今も張り付いているのだった。
 1994年、相変わらず試写状を無駄にはしないと、先月に触れた『トリコロール三部作』は勿論、『さらば、わが愛/覇王別姫』、『香魂女』、『青い凧』、『エル・マリアッチ』、『夏の庭』、『トカレフ』、『エンジェル・ダスト』などに続いて、3月31日の試写はアンジェイ・ワイダ監督の『ナスターシャ』だった。
 ドストエフスキーの後期の長編小説「白痴」を原作にしているが、嫉妬に狂ったラゴージンがナスターシャを殺した処へムイシュキンが駆けつけ、二人の長い物語りがカットバックで語られる手法になっている。しかも、登場人物は恋人同士のナスターシャとムイシュキンを坂東玉三郎が二役やっていて、ラゴージンの永島敏行とたった二人だけなのだ。本国旧ソビエトでは、ソ連邦人民芸術家の称号を持ち人気監督だったイワン・プィリエフが58年に映画化していて、遡る46年にはフランスの監督ジョルジュ・ランバンが映画化しているが、ムイシュキンを演じたジュラール・フィリップの初主演作品だった。51年に森雅之、原節子、三船敏郎が共演した「白痴」は、舞台を雪の北海道に移した黒澤明監督の代表作品の一つだ。だが、ワイダ監督のこの作品は、ワルシャワの宮殿にかかった霞が無垢な“白痴”のムイシュキンの心を表わし、柔らかな逆行の光がナスターシャの美しさを表わしていると言えども、度肝を抜く換骨奪胎なのだ。試写会も芝の東京プリンスホテルの一室と変な場所だった。
 実はこれには裏話がある。「白痴」はワイダ監督にとっても圧倒的魅力溢れる作品のようで、それまでポーランドの俳優を使って舞台試作は何回か繰り返していたそうだ。ところがある日、玉三郎と出会ったワイダ監督は、玉三郎で是非『白痴』を演出してみたくなり、原作の大団円にあたる、ラゴージンがナスターシャを殺したところにムイシュキンが駆けつける場面を突出させて、前の場面を回想に挟みこみ、しかも、玉三郎の発案のショールをくるりと巻き込むとナスターシャに変身する技を取り入れて、恋人二人を日頃女役の玉三郎に男役も演じさせたのだ。性の妖かしも含めて、つまり玉三郎の肉体なくては始まらない演出だったのだ。
 1990年3月15日、隅田川左岸の今はなき劇場ベニサンピットの舞台はワイダ演出の『白痴』だった。何回も先述しているように玉三郎の二役に、ラゴージンは辻萬長だった。ムイシュキンの持つ清水がラゴージンの一滴の血で濁って行く透徹したドストエフスキーの悲劇が、舞台と客席が同位置の近距離で、玉三郎によって同一時間に演じられているという、小劇場ならではののっぴきならない状況に追い込まれて、危ない陶酔感に襲われるのだった。それも只の小劇場にあらず、さまざまな先進的実験劇場として血と汗がしみ込んだ劇場ならばこそ、客を幻想に追い込むのだ。
 アンジェイ・ワイダ監督の一連の映画を俺にとってある時は一番と言ったりした。そんな監督にしても、舞台が映画になる差は、如何ともしようがなかった。
 五体が板にくっ付いているような玉三郎の命は舞台のはずだが、表現の違いの分からない今の俳優や映画演劇人に、表現を金で売るなと苦言を呈したい。