Flaneur, Rhum & Pop Culture

「夢見る力」を抱くこと
[ZIPANGU NEWS vol.20]より
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 1982年、演劇でいえば天井桟敷が「奴婢訓」で最後の海外公演をしたり、早稲田小劇場が「トロイヤの女」で海外に出たと思ったら、富山県の利賀村に日本初の世界演劇祭を組織したり、状況劇場は「新・二都物語」で、東京の都市の暗部とソウルの夢幻の都市を架橋しようとした。それは60年代なるものの総括作業のように思えたし、政治では浅間山荘事件他の連合赤軍のメンバーに死刑判決が出て、72年の大きな傷跡も塞がれようとしていた。ところで雑誌「東京人」でも特集で“68−72新宿”をやっていたように、俺は時代をディケイド(10年)で区切るなら、経済や政治がコントロールする時代は常に先取りしようと動くので、つまりエントロピーの概念を増大させるので、60年代は56〜65年、70年代は66〜75年、80年代は76〜85年とした方が、文化にしろ政治にしろ、その時代の流れと変化が捉えやすいといった自論を持っている。時代精神においてという意である。

 つまり82年という年は、高度経済成長を通り越して前年続きの経済不況だった。特に出版界の動向は激しく、毎年百何十誌が廃刊休刊したかと思うと、若者向けの「スコラ」、マンガの「コミック・モーニング」、女性向けの「マリ・クレール」や「エル」を始め、それを上回る数の創刊があった。特に科学関係というか、パソコン、ワードプロセッサーやOA関係の入門書や新雑誌が爆発的に売れた。ここでも革命という言葉好きの日本人は<OA革命>などと言った。時代はアナログからデジタルへ大きく方向を変え、音楽もフュージョン・ジャズにテクノ・ポップス流行りの世になっていた。時代はギロチンに掛けられたように分断され、人々はその新時代に乗り遅れまいと必死の形相で追従していった。そんなことだったから、わが82年度の手帳は白紙だらけののっぺら坊で、あくまで個人的にではあるが、時代のしらけ具合を手帳が如実に語っているのだった。

 そんな時代にあって、わが「下北沢スーパー・マーケット」では、相変わらずしもきた人間になってもうた関西ブルース・ロック&フォークのしぶとい連中のラインナップがあり、かって音と音を激しくぶつけ合う戦う前衛の山下洋輔トリオも、坂田明、森山威男を武田和命、小山彰太に替えて、ジェントルに音を創り出して時代をひと括りした整合性に向おうとしていた。代りに暴れていたといえば、過激だがコミック要素を取り入れた客席乱入型のドクトル梅津生活向上委員会だった。勿論芝居の方も、東京乾電池や秘法零番館、劇団蟷螂など、スーパー・マーケットの役目は外しはしなかったのだが、歴史上最大の130万人の失業者という現実を、マシュマロみたいな売れ線文化で覆い隠す時代とは、まともに向き合えなかったところがある。そんな捩じれた性格は、「レディ・ジェーン」ライブに初めて呼んだバド・パウエルの流れを汲む黒人ピアニスト・ケニー・バロンの圧倒的で貴重なプレイさえ、どこか仇花にしてしまったのではないかというこの年の反省である。