Flaneur, Rhum & Pop Culture

「千僧音曼荼羅」に取り憑かれて
[ZIPANGU NEWS vol.133]より

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 例年4月の第1土曜日には、「死を想え/メメントモリ」という題をつけた昼講演会、夜ライブの催しを、相模原の臨済宗・常福寺でおこなっている。4月の第1土曜日に住職が決めたのは、境内に見事に咲く桜の花を重要な役割にして巻き込もうという魂胆からだったが、当日が花冷えだったり暖春だったり、勿論自然の成り行きはガンとしてあって、思いはその年その年で叶ったり叶わなかったりしつつ十数年続けている。三人の講演者が50分ずつ話した後に、みんなでパネルディスカッションをやって4時間、これで終りかと思いきや、夜になって昼に負けない非具象的なライブが始まるのだ。俺は今年4月4日の三人の講演者選びに焦っていた。
 つい先日の2月11日の「レディ・ジェーン」は、ウィークディだったが祭日だったので、あがた森魚の歌に、太田惠資のヴァイオリン、東谷健司のベースのライブの日だった。「琥珀色のギヤマンの中の、妖かしのルビー色の液体・プースカフェに沁みたタンゴ43年なんて、あっという間の残酷です。」とは、俺が勝手に付けたキャプションだったが、まったく関係なく進行してセカンド・ステージが終った頃、落ち着く暇もなく先の常福寺の和尚・原和彦が若い頃共に修行した仲の、立川の玄武山普濟寺の和尚・弓場重弘と入って来た。その催促の話で来たのではないとは察していたが、俺はまだ4月4日のための十分な回答はできていなかった。
 1993年3月1日、結構希少な催し物を体験した。それは一大コンサートというより、ライブ・スペクタクルといった方が良いだろう。「千僧音曼荼羅」という題目だった。出掛けて行った日本武道館には、つまり、真言宗豊山派の千人の僧が出演するということだった。それに俺の記憶では、佐藤允彦が音楽監督で、林英哲が全体を構成して器楽奏者が対峙していたはずだ。打楽器だけでも林英哲始め、高田みどり、YAS-KAZと3人がそろい踏みだった。大音量でも知られた当時のベスト3がガンガン打ち鳴らし、梅津和時が吠えまくって始まった。日本武道館の床の真ん中に組まれた演奏ステージから、当時<ジャズ>という認識からは桁外れの大音響が、一段高い東西南北円形に囲んだ客席を席巻した。こけ脅かしかと思うそのイントロダクションがどれほど続いた後だったか、四方八方から僧侶が声明を唱えながら登場して、真ん中のステージを囲んで床に座り込んで行くのだが、千人の僧侶が出揃うまでには相当時間がかかる訳で、音楽と声明の合奏のその流れが、コントラストとかグラデーションとかの言い方では陳腐になる、アジア人でなければ解せない水墨画の巻物の世界に入り込んで行くのだった。そして遂には、あれほど大音響だった器楽演奏音が大声明の中に入り込んで、或いは巻き込まれていって、声明だけを聴いている錯覚に取り憑かれていくのだった。身は客席にあらずその感覚を遊体離脱というのだろうか。
 例えば、花見遊山や紅葉狩りなどで京都の寺社に入り込んだ、特に夕暮れ時、経験知で言えば、嵐山なら清盛に裏切られた祇王寺や去来の落柿舎の無音の寂びの佇まいだが、知恩院御影堂での回向をした時や、白川通りから真如堂に登り、金戒光明寺から黒谷に下りていく道すがら、轟々と山ごと響き続ける、読経に襲われた時の奇妙な感覚に近いのかもしれない。畏怖でもあり悦楽でもある、否、恐怖に決まっている。そうでなくても魑魅魍魎が跋扈している京都の町だ、“そうだ、京都に行こう”などと言ってる乗りであるはずはない。
 時は1993年、場所は京都でなくて日本武道館だった。こんな大掛かりな催しが何故行われたのかは知らないが、総本山が高野山真言宗金剛峰寺は知っていても、智山派智積院もあれば醍醐派醍醐院もある。真言宗豊山派というのはその時始めて知ったきり、耳に憶えているだけで何も分かってはいない。何でも真言宗中興の祖・興教大師850年忌を祈念する一大法要イベントだったことはチラシで知った。そう言えばと書いていて、能笛の一噌幸弘がいたな、フルートの中川昌三もいた、ベースは確か岡沢章だったな、バブルが弾けてしばらく経ったあの時代、かくも贅沢な変わり花のページェントが行われたことがまざまざと思い出されて、ひとりで行った俺は帰りように困り果て、2月1日から赤羽橋の済生会中央病院に、肺癌で入院していた友人のロンこと故 ロナルド・バートラム・ジョーンズを、深夜、見舞いならず病室に襲ったことまでが浮かんで来た。