Flaneur, Rhum & Pop Culture

下北沢は「羊の歩み」か、2015年の初春
[ZIPANGU NEWS vol.131]より

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 年末の12月にジパングプロダクツから、W・シェークスピアと同時代人のリュート奏者、作曲家のジョン・ダウランド生誕451年のトリビュート・アルバムをリリースした。生誕450年の去年から、ダウランドに魅せられている現代のリュート奏者、高本一郎とあれこれと論議しながら、コンサートをやったりした結果、一年後に実現したこの二枚組のアルバムは、参加メンバーもだが凄いというしかない。自己自慢ではなくて、ダウランドの音楽上の敬意は払いつつ、現代を生きる参加ミュージシャンの息吹と心情を込めた極めて今日的な仕上がりに、お叱りを受けるかも知れないと言いたいのだ。マスタリングを旧知の小野誠彦が引受けてくれたことも一枚噛んでいるかも知れない。『Come Again/いま、君に逢いたい!』の参加メンバーは、リーダーの高本一郎の他、一枚目、彌勒忠史(countertenor)、高瀬麻里子(vocal)、鈴木広志(sax)、東涼太(sax)、上運天淳市(sax)、江川良子(sax)。二枚目、柳家花緑(朗読)、太田惠資(vln,voice)、濱田芳通(cornetto,recorder)、佐藤芳明(accordion)、吉野弘志(bass)の布陣。

 勿論、去年がそれだけではなくて、五月には韓国から姜泰煥を招いて、田中泯、中村達也、大友良英、ジム・オルーク、山本精一、斎藤徹などとやった『ブレス・パッセージ』は腑抜けになったほど過激な死のロードだったし、秋の恒例の『シモキタ・ヴォイス』は毎度のこと疲れ切ったし、オリエンタルホテル広島の企画もあり、何より店の月に6、7回のライブ・ブッキングだってある。疲れ切ったことを成就したと置き換えれば、特別悪い年では無かったとも言えるだろう。にもかかわらず、何か重いものを背中に張付けたまま年を越す実感から拭われない。と思うと、昨年末の何故行ったか理由が不明の議会解散と衆院選に行き着く。
 解散直前に消費税の「増税延期」を決めた安倍政権にはさぞ、自民圧勝の選挙結果が簡単に読めたことだろう。「一強多弱」に勿論民主主義はない。俺は腐った諸党を支持する気は無くてもカッコつけて選挙に行ったが、有権者の二人に一人が棄権したという。何故なのかはどうでも考えられる。只<金=カネ>が総てで動いている今の世が何処へ向うのかを思えば、先の大戦前のようであるし、特定秘密保護法や集団的自衛権、武器輸出認可や原発推進、そこに指針した全国自治体の教育委員会の指導など、あらゆる事象は大政翼賛会的であり、国民総動員的といえる。戦後経済成長を支えてきたのは<産学協同路線>であり、<金の卵>という集団就職中学生を含めた理工系の若者だった。「お前なんか入ってない」と言われば、リコー系とほど遠い、ブンカ鍋ひとつ造れないアホ系の俺は、食えない奴ということになる。

 1993年はバブルがパンクした実感が市民生活に及びつつも、荻野目慶子や島田陽子のヌード写真集がバカ売れした年の翌年だった。新年からバブル崩壊後の激安ブームが襲い、このデフレ不況は形をデフレ・スパイラルに変えて、現在まで20年以上続いているというのが、店舗経営者或いは企画者としての実感は置いておくとしても、その年の大ベルトセラーが中野孝次・著『清貧の思想』や、C・イーストウッドの貧乏臭い映画『マディソン郡の橋』に、不況振りがよく現れていたと思っている。危機的状況は実利的に感じながらも、「ロマーニッシェス・カフェ」の新春第一弾ライブは1月9日、吉野弘志の「才能分裂」、10日、近藤等則+山木秀夫の「CYBORG NIGHT」の連弾で、外に頼らず手持ちの脳内エンドルフィンを活性化して一年を喝破しようとした。証拠のひとつが、1993年の手帳を開けると、1月のページ前の数枚に、発行していた定期月間冊子の記事のための、酒の名シーンが出てくる映画タイトルと、勝手に選んだ依頼原稿予定の著名人の名がびっしりと書き込んであったではないか。それと、臆せず行動できたのは、「レディ・ジェーン」は1月15日まで改装に当てたほど余裕を見せていたというか、山手線の外側にある古き特異な下北沢の街には、バブル崩壊の影響は全くといって無かったし、2000年代以降から続く構造的デフレ・スパイラルの泥沼から比べると、1993年なんか大したことじゃなかったのかと思えてくる。
 下北沢は路地も店舗も<玩具箱をひっくり返した>雑居の街故に、20世紀の大型開発から<忘れられた>街だった。ところが土建国家の日本は、21世紀になって開発場所を失って、狭い下北沢にも目を付けたという言い方も出来る。<金=カネ>の国は国内的にはゼネコンを援助すれば景気が良くなると信じていて、今、手術台の上に寝かされた下北沢は、緩やかに死に向って呼吸を小さくしつつある。新年早々22年振りの改装を考えているのだが、1993年のようにはいかない。息絶える前に独立するには戦争が必要か?それとも金か?作戦日の三が日は眠れない。
 最初に取り憑かれたのは、1981年、クロード・ルルーシェの映画『愛と哀しみのボレロ』だった。5回観た。亡命したルドルフ・ヌレエフ、エディット・ピアフ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、グレン・ミラーたちの実在の物語りにフィクションを混ぜ合わせた、モスクワ、パリ、ベルリン、ニューヨークの4都市の物語りが同時進行して、戦前戦後に亘る生と死の3時間を越える壮大な大河ドラマなので、巨大なステーキを食わされているようなものかも知れない。だが、今の日本の3,000円か2,000円ポッキリ、飲み放題食べ放題の貪ではなくて、監督の手料理が行き届いている満漢全席かも知れない。その極みが、ポンピドー・センターに終結した因縁生起の男女の前で、最期の17分間の『ボレロ』を踊り続ける圧巻のジョルジュ・ドンなのだ。指揮するのは勿論カラヤン。涙に堪えられる者はいない。当映画を巡って論争になった時も、「例え3時間近くがださかろうが、最後の17分が良ければいい映画なんだ」と突っぱねた。
 1990年3月22日、上野文化会館で行なわれた、チャイコフスキー記念東京バレエ団公演「モーリス・ベジャールの夕べ」に、ジョルジュがやって来た。映画から約10年経った分、鋼のような身体はやや衰えていたが、円熟度と生で観るライブ感は、映画のそれの比では無かったことは言う迄もない。そして同じ年、ジョルジュの後を継ぐように、初めて東京で『ボレロ』を踊った女性ダンサーがいた。今やバレエ界の女王で、東京バレエ団と踊り続けて170回を越えるシルヴィ・ギエムは、皆が東日本大震災から去って行く状況下の2011年にも、逆にやって来て『ボレロ』を踊った。
 今年8月14日、「私は2015年の終わりに踊ることを止めます。そして日本でさよなら公演を行う予定でおります」シルヴィ・ギエムはそう言って、衝撃が走った。「本来、男が裸で踊って汗を垂らすダンスがベジャールの『ボレロ』だ」と言う者がいる。俺もそう思う節もある。だからと言って、ジョルジュを継いで26年、来年最後の花道に向おうとする彼女にそんなことは言えはしない。