Flaneur, Rhum & Pop Culture

<らしく>でユーラシアは括れない。
[ZIPANGU NEWS vol.125]より

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 『ブレス・パッセージ2014』というイベント・ツアーを、5月16日に始め先月の6月1日にやり終えて、以後ボーッとしているのだが、その中の5月23日は千葉の稲毛にある「キャンディ」で、姜泰煥(カン・テファン)と齋藤徹のデュオだった。 姜泰煥は1985年に初来日した翌年からの付き合いをしていて、齋藤徹とは当然ながらもっと前からになる。田中泯や中村達也、日替わりでジム・オルーク、大友良英、山本精一と言ったメンバーの出演だったが、元々13、4年前に姜泰煥のために立てた来日企画で、その日はイレギュラーでスペシャルなセットだった。十数年間のこれまでに二人は何回演っただろうか? その中でもその夜のデュオが一番良く感じられたのは何だったのか、振り返ってみる。姜泰煥が特に奏法やアプローチを変えた訳ではない。ベーシスト齋藤徹はかつて鉦や鈴やドラも合わせて取り込んだ形で、よく姜泰煥に対峙していたが、今回、スティックぐらいはあったと思うが殆ど楽器としてのベースに集中したインプロヴィゼーションで対峙していた。だからといって、そこが「よく感じた」原因かどうか分からない。すると耳障りの問題なのか? 耳障り良く聞こえたものが良い演奏だった等とは言えないだろう。だが齋藤徹の確信犯的な演奏作為にその夜の共演の要は秘められているに違いないが、説明しても嘘になるし、ここはそうした批評の場ではなくタイトルにあるままの遊民の戯言の場なのでやめる。
 演奏後、齋藤徹が俺に「これ」と言って二つの資料を手渡した。一つは今秋に招聘するベーシストの紹介で、一つは昨年彼が企画した『ユーラシアン・エコーズ第二章』の報告とその時の舞台のDVDだった。出演メンバーは、韓国から元一(ウォン・イル:ピリ・打楽器)、姜垠一(カン・ウニル:ヘーグム)、許胤晶(ホ・ユンジュン:アジェン・コモンゴ)、姜泰煥(アルトサックス)、南貞鎬(ナム・ジュンホ:ダンス)の5名に、ドイツ在住のピナ・バウシュ舞踊団のソリスト、ジャン・サスポータス(ダンス)、日本の沢井一恵(17絃箏)、螺鈿隊(箏4名)にリーダーの齋藤徹といった布陣で、中に演奏した齋藤徹作曲の『STONE OUT』の約70分間が収録されていた。取り出した去年のチラシの挨拶文には、「21年前に邦楽・雅楽・ジャズのアンサンブルに韓国の伝統音楽奏者を加えた『ユーラシア弦打エコーズ』というコンサートを行いました。『自分は何者なのだろう』という若い問いを音楽で考えてみようという試行錯誤の末にたどりついた一つの企画でした」とあった。それで21年後の去年、試行錯誤がどう変化して何を見つけようとしたのか等知る由もありません。俺はただ気になったから聴きにいったのだ。
 韓国シャーマンの大家と言われた金石出(キム・ソクチュル)という人がいた。パフォーマンス集団を率いて、日本人も含めて色んなミュージシャンを巻き込み、言語化し得ないポリリズミックな巫楽である世界を司っていた。日本版では梅津和時と共演した『神明(シンミョン)』(1993年)がある。私淑し交流していた齋藤徹が、金石出にオマージュを捧げて1995年に創った組曲が『STONE OUT』だったが、元々、世界に飛躍した西陽子、竹澤悦子、丸田美紀、八木美知依の女性箏奏者4人組の「KOTO VORTEX」の委嘱作品だったはずだ。リズムが生まれる序章に始まり、自然とのふれあい、不幸な知らせに嘆き、慰められて終章を迎えるまでの、7楽章が時の流れと感情のダイナミズムに紡がれていく。一体何回『STONE OUT』を演奏する「KOTO VORTEX」や齋藤徹グループに関わり、或は立ち会ってきたのだろうか?色んな楽器が入れ替わりたち現れて交錯する。
 1992年6月24日、「ユーラシア弦打」と題したライブを「ロマーニッシェス・カフェ」でやった。メンバーは沢井一恵、ひちりきと笙の西原祐二、来日した許胤晶、そして齋藤徹の4人のメンバーだった。それは、初回の「ユーラシアン弦打エコーズ」を立ち上げた21年前(今年からは22年前)に当たる。ここには既に邦楽、雅楽、能楽、韓国国学、洋楽、現代音楽、ジャズを包括した、ある試行錯誤の斬新が垣間見えていた。これにタンゴとダンスや歌唱や美術をも取り入れて、<ユーラシア>という括りにしようとする齋藤徹と、その頃だったか、同調して話をした記憶がある。
 1975年に「レディ・ジェーン」を開いたら、俺は<ジャズの人>にされた。<らしく>が嫌いだった。広島人<らしく>やジャズ人<らしく>して、どうして広島やジャズに規制されなくてはいけないのか。<らしく>から遠ざかると世間は冷たい。
 <黒潮>の話だった。<黒潮>はマレー沖から南西諸島、琉球弧を北上すると、日本列島で太平洋側と別れた日本海側の黒潮は、中国、朝鮮半島を洗って樺太に及ぶ話、つまり、文化の混交したユーラシアだと言うこと。アッ、冒頭の「キャンディ」の齋藤徹が、ピアソラ・タンゴの『不在』に向った齋藤徹に重なって見えた。