Flaneur, Rhum & Pop Culture
音楽人として<黒雨>、書家として<如水>が雅号の人だった
[ZIPANGU NEWS vol.121]より
LADY JANE LOGO











 この2014年3月1日は韓国の打楽器奏者だった故・金大煥の命日だ。吐血後、肺炎をこじらせて2004年3月1日に亡くなってから丁度10年が経った。享年71歳、韓国では数え年なので今82歳ということになる。
 2月の或る日に、埼玉県の高麗郷にある高麗神社に行き宮司に会ってきた。今企画しているイベントに、境内を貸して戴きたいという相談だった。御鎮座1300年祭を2年後に控える若き高麗文康宮司は、716年に新設されて以来、代々高麗姓を引き継いで60代になるという気も遠くなる歴史の中にあり、偉ぶったところが無く誠実で、知識や話題を実に多く持ってる方だった。そんな人だったので、最初は企画意図を俺が語り宮司が受ける、ついで宮司が神社の歴史を語り俺が驚嘆しつつ聴くというやりとりだったが、ついつい話があちこちに飛び交って雑談になっていった。そこで自然の流れとして、友人だったと言えば不遜だが、プロデュースして親しくなったのではなくて、親しくなったのでプロデュースをするようになった程親しかった故・金大煥の話を俺が持ち出すと興味津々と身を乗り出して聞き入るのだった。
 1992年といえば、世間はバブルが崩壊しててんやわんやになったことになっているが、後年経済分析して歴史をそう位置づけたのだろう。実際、地代が天文学的に上がっていて、税金が払えない相続破産者が新聞を賑わしていたり、俺の友人知人のカタカナ職業の連中、例えばコピーライターなど、景気悪化の会社が社員公募で凌ぐようになり、何人もの連中が契約を破棄される憂き目にあってたし、出版社や新聞社、テレビ局や広告代理店などの社員は、会社タクシー券の発券を止められて弱っていたし、多くの顧客をそれらの社員に頼っていたわが店の売り上げは、急下落していった。それでも、サラリーマンの給与の50や40万が30や20万に下給する訳ではなく、ここ何十年も続くデフレ・スパイラルの構造不況に比べれば極めて呑気だったというしかない。
 前号で竹鶴酒造探訪に触れたが、その足で1992年3月10日、唐津に陶芸家の友人・松尾友文を訪ねてろくろ遊び三昧をしたり、帰京後も、李康則陶芸展を覗いたり、日本吟醸酒会の試飲会やシングルモルトのボトラーの先駆けゴードン&マクファイルの社長を招いた試飲会に参加した。というと、飲めや歌えやキリギリスばかりして、勤務をサボりまくっていたように聞こえて良くない。4月3日、江口孔版から注文しておいた品が届いた。木枠にピンと張られたシルク版に「LADY JANE」と「ROMANISCHES CAFE」のロゴマークがカットされていた。材料を取り出す。色塗料、バインダー、目詰まり防止液を配分して混ぜ合わす。用意した前掛けとYシャツの袖を広げてスキージで刷る。何十枚も繰り返し干した後に色落ちしないためにアイロンをかける。別の日、毎月発行の冊子の文字を写植屋に出して、その写植文字をレイアウトして貼付ける。それを製版屋に届ける。製版が上がるとそれを印刷屋に届ける。数日後、印刷屋から冊子が出来上がって来て完成。この二つの仕事を発注無しの手仕事で数年前までやっていたのだから、カタカナ職業を追い詰めていたのだろう。
 金大煥の話に軌道修正する。彼のその時期の来日ライブは以下の如くだった。
 4月2日、澤井一恵・齋藤徹、5日、梅津和時・灰野敬二・豊住芳三郎、14日、大倉正之助・一噌幸弘、17日、佐藤允彦・梅津和時・大倉正之助、22日、佐藤允彦・片山広明・板谷博・翠川敬基・加藤崇之、23日、山下洋輔、25日、大倉正之助、28日、レオ・スミス、豊住芳三郎、不破大輔、30日、早坂紗知、5月2日、サインホ・ナムチュラク・坂田明と来日記録がある。1ヶ月に都内ライブハウスだけ10回もやる来日音楽家は他にいない。そんなことをすると、各所各所が潰しあいに必ずなる。ところが金大煥には常識は通用しない。変人だからではない。奇人でもない。音楽家として<如露亦如雷>を修得するために山に籠り、書に向って微細を極めて、遂に米粒一つに般若心経287文字を彫り上げるに至り、故・金大中大統領から依頼があっても、「書は音楽の研究のためにやっている2番手だから」と意に返さない仙人なのだ。
 教鞭を取っていた漢城大学校から音楽でも書でもなく哲学の名誉博士号を授与した金大煥は、鋼で出来た鉄人から哲人になってあの世に逝った。パトカー2台に続いて20台のハーレーダビットソン隊、当人が乗った霊柩車が所縁の道路を占拠してお練りした。