Flaneur, Rhum & Pop Culture

哀愁の『かしわ村から』何処へ
[ZIPANGU NEWS vol.18]より
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 先月7月17日に「レディ・ジェーン」で三上寛のソロ・ライブをやった。
 “「ヴィレッジ・ヴァンガード」にピストル魔の少年が潜んでいた69年、三上少年は時代の現認者が運命となった/怨歌のひと夏”がその日のキャッチコピーだった。有名な「夢は夜ひらく」なども歌ったが、当日の歌の多くが新曲だったことに、今更ながら創作意欲の旺盛振りを思った。
 その中の一つに『かしわ村から』という新曲があった。彼の歌う詩の原点は、殆んどが出身地である青森県北津軽郡小泊村という津軽半島の一番端にある小さな漁村、又は高校時代過ごしたという西津軽郡柏村に起因しているのであろう。その両村とも昨今流行りの町村合併で名前が消えたという。淋しい話だ。三上寛みたいに土着的愛憎を込めた者にとっては、殊の外淋しい話だ。
 “かしわ村からジョン・レノンのようにニューヨークへ行った かしわ村から兄さのように津軽海峡を渡った かしわ村から○○○のように48度線を越えてパリに行った”と歌った『かしわ村から』は、去年のパリへの旅の後出来た曲だった。青々として街路の光を塞ぐ両側の大きな葉を見て「柏の木じゃないか、して思うとあの有名なシャンソン『枯葉』の正体は、ブナ科の落葉高木柏だったのか」と、故郷とパリの共通性を発見したりしていたが、今や消えてしまった津軽の村が切れないのだ。

 前の稿でも82年の下北沢に触れていたが、三上寛を初めて「レディ・ジェーン」に迎えたのは82年だった。ジャズの店で異種としてやっていた一つが、古澤良治郎&大塚まさじだったが、その流れでやったのが古澤&三上だった。
 初めて出会ったのは69年の新宿、区役所通りを挟んでゴールデン街の反対側にあった元青線街の「小茶」という店だった。ガラス戸が開け放たれていた季節、仲間と飲んでいると、店頭の路地に立った威勢の良さそうな青年がいきなり「ちょっとお耳を汚します」とか言って、ギターの弾き語りを何曲か歌ったと思ったら風のように消えた。

 その後十余年、中津川フォークジャンボリー初め、アングラ演劇的な絶叫悲痛フォーク歌手は圧倒的な全国区名となって、下北にやってきたのが82年だった。元来、新宿で遊び学んでいた俺が、数年後下北沢に同じ匂いを感じて遂にシモキタッ子になった経緯からも、新宿の三上寛が下北に似合う三上寛だったとしても不思議ではなかった。
 ところが、本多劇場が出来た82年頃から急激に街が変わり始めたのだった。時の中曽根内閣ドクトリンというか建坪率変更もあって、個人商店主が二代目三代目になった多くが、三階建てのテナントビルを商店街に乱立させ初め、チェーン店やファーストフード店を参入させていった。下北沢は次第に<らしさ>を薄めていくと同時に、地代やテナント料を高騰させた。それでもメディアは、“若者の街シモキタ”を無責任に煽り立て、外部から商売根性でやってきた新店舗は、それでも厳然と残るシモキタの癖が見抜けなくて、出店しては潰れるを繰り返して今日に至るのだった。
 三上寛の下北は最早哀愁でしかなかった。