Flaneur, Rhum & Pop Culture
出会いにはなんでも初めての夜がある
[ZIPANGU NEWS vol.114]より
LADY JANE LOGO











 7月21日参議院選挙が終わり、50%ギリギリのまれに見る低投票率で自民党の圧勝で結果した。安倍政権は益々意を強くして原発再稼働、原発輸出に拍車をかけてゆくのだろう。音楽や歌や絵や踊りは何処へ行くのだろうか。広島出身の俺はまんじりとも出来ない気分になってくる。
 2011年12月10日、永福町にある野坂昭如邸に黒田征太郎と荒木経惟は向った。出版社のスイッチ・パブリッシングが定期発行していたがしばらく休刊していた雑誌、『コヨーテ』の復刊を画策した黒田征太郎が、9年前に脳梗塞で倒れた野坂昭如を今こそ世間に引張り出して、荒木経惟の撮った写真でページを埋めようとした、その撮影初日の日だった。<今こそ>というのは、その年の3・11の津波大被害と原発の放射能汚染対策が遅々として進めない肥満した日本国の<今>ということだ。2013年8月の今なお、被災地は棄てられている。
 68年も経った<戦後>と同じように棄てられている。
 1991年11月29日の一日の出来事を書こうと思う。当時は出版社も新聞社もパソコン週刊誌を新たに立ち上げて、デジタル文化への変化に対応しようとしていた。朝日新聞社も同様で、「アサヒパソコン」という週刊誌を発刊した。編集長の森啓次郎は発行日のその日に、発刊記念イベントを企画して有楽町の朝日ホールで行なった。プログラムの終盤に激励のトランペット演奏を終えた近藤等則と俺は二次会までの時間を持て余した。そこで俺は彼を誘ってちょくちょくお邪魔していたクラブに行くことにした。「まり花」(故久世光彦夫人の朋子ママがやっていた「茉莉花=ジャスミン」とは違う)は気さくに行けるクラブだったが、但し、いつ誰と遭遇するか知れない文壇クラブだった。早かったせいか俺たちが口あけだった。ママを紹介してチーママ(の二人きりの店なのだ)と4人で気ままにがやがや飲んでいると、そこへ突然、野坂昭如がお伴の大男を連れて入ってきたのだった。
 「まり花」はコの字型の細長いソファー席があるだけで、つまり何処に座ろうが殆ど同席に近かった。声をいきなり潜めたが、お互いに喋り声は聞こえてしまうのだ。気まずい時間が流れてどれくらい経ったか、俺は意を決して野坂昭如に言った。「あのお、僕は黒田さんの友人で大木と言います!」と。すると「連れの方は近藤さんですね」と返事があって、信じ難いことだが、たちまち同席の間柄になっていった。盛り上がり打ち上げの時間はとっくに過ぎていった。「一軒河岸を変えて飲もう」と言われた申し出を断わり、実はかくかくしかじか、打ち上げの店「バーモス」にお連れすると、森啓次郎はじめ朝日新聞社の編集者一同にひっくり返って歓迎されて、ゲストの俵万智の横に陣取った野坂昭如と俺たちは、彼女に敬意を表して連句三昧に突入していくのだった。知的享楽の時間は深夜となって、全員帰っていった「バーモス」でまた俺たち4人になった。放っておかれたママの「野坂さんと少し話したいわ」という申し出を野坂昭如が快く受けたからだったが、「この店の屋号は開高健さんに付けていただいたのですよ」などというママの言葉を、うんうんと聞く野坂昭如の姿など想像も出来なかったよ。
 翌日か二日後、「ロマーニッシェス・カフェ」にやって来た黒田征太郎に、俺は当然一夜の顛末を、努めて冷静を装って話したが、野坂昭如に一番親しいと思う黒田征太郎にさえ「そんなことはあり得ないよ」とはなから信じてもらえなかった。三日後、つまり、事件の夜から五日後の夜、雑誌かテレビの取材で店にその二人がやって来たのだ。俺は一夜の顛末を証明するためにも、「野坂さん、先日はお付き合いどうも有り難うございました」と挨拶するのだった。
と、こんな交友録話どうでも良いのだろうが、その後のささやかな企画でお付き合い戴くきっかけの一夜として、俺の中では象徴的な一夜なのだ。もう10数年銀座には行ってない。
 2012年の夏の終わり頃、黒田征太郎から書籍が届いた。開けると復刊なった「コヨーテ」の2012年秋号だった。荒木経惟が撮った野坂昭如写真がわんさかと、黒田征太郎の被災地画がわんさかと掲載されていて、窒息するほどの気配が襲ってきた。添えてあった手紙には「発行人の新井敏記と話してやっと出ました。」のやっとの個所には棒線が引かれていた。