Flaneur, Rhum & Pop Culture
1991年夏・金と頭は使いよう
[ZIPANGU NEWS vol.112]より
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 1991年のバブル崩壊の歪みは、先月号で触れたように次々と全国規模で<悪のしくみ>として剥き出されていった。テレビ朝日通りにあったわが「ロマーニッシェス・カフェ」も、フレックスタイム出勤の新聞社、出版社、広告代理店、テレビ局などの固定客を多く抱えていて、その多くの会社が社員タクシー券の配布を一斉に止めたので、本格的稼働時間の午前0時以降とんと客足が途絶えて来なくなり、経営上喘いでいた。今になって再開発が問題になっている下北沢は、路地だらけの雑居の街故、世の動向から置き去りにされていたが、当地の「レディ・ジェーン」は3、4年遅れでそれはやって来た。
 そんな時代にも関わらず、1991年8月17、18日、「今治ミーティング/瀬戸内海音楽祭Vol.1」と題したイベントがあった。14日に韓国の巨星パーカッショニスト金大煥の『黒雨』ライブをキッドアイラック・ホールで終えて、15日には店が定期発行していた月刊冊子の9月分のゲスト原稿を、監督の催洋一から受け取り校正して、16日に他原稿とともに写植屋に打ってもらった文字をレイアウトして版下を作った。後は写真製版屋に原版を製版してもらい印刷屋に持って行くだけなので、俺じゃなくても妻かスタッフに預ければよかった。思えばその当時はそんなことを毎月毎月やっていたのだ。ともかく、当時はまだ小林靖宏だったcobaのわが店のライブをケッポっても、17日の羽田から飛行機に乗るためにバッタ屋作業を急いだ。
 建築家の友人石井勉と2人の娘、俺と娘の5人は松山空港に着陸すると、港内タクシーに乗った。「隣りの今治市までじゃったらすぐじゃけぇ」と、その辺にいたおじさんに訊くとさも近そうに言ったからだ。田舎の「すぐ」は遠く1時間後、目的地の唐子浜に着くと、それはもう祭りの準備に浜全体がザワザワしていた。87年に竹下内閣が行なった<ふるさと創生>なる各市や郡への1億円バラ撒き行政事件があった。多くの各自治体が箱ものを立てたり、1点豪華な美術品を購入したりしたが、今治市はそのお小遣いに手をつけてなかったのだ。それに眼を付けたのは乾坤一擲、今治出身の音楽家の近藤等則の企画が通ったのだ。そんな潤沢な予算の音楽イベントをやるのだから、地方の1市全体が浮き足立つのは当然だったろう。
 近藤等則プロデュースで揃えたバンド及びユニットは、近藤等則の「IMA」始め、ビル・ラズウェル、アントン・フィアー、坂田明、仙波清彦、ペーター・ブロッツマン、一噌幸弘の「ドロップ・ゾーン」「ネーネーズwith知名定男」「ランキンタクシー」、インドネシアのガムランと舞踊の「デサ・スンダ」などだったが、もうひとつ、ジンジャー・ベイカーが出演したことだった。ジャック・ブルースとエリック・クラプトンを誘って「クリーム」を66年に結成して以来、そのステージの破天荒ぶりは伝説化していた。時代がすっかり変わった去年、ジャズ・バンドを率いて丸の内のコットン・クラブに来日出演したが、その時の謳い文句が<21年ぶりの来日、歴史的事件!>だった。<21年ぶり>とは当然この時以来ということ。しかも、21年前の8月18日の今治に出演するや、東京にも来なくてさっさと帰ってしまったので、<21年ぶり>という言い方にしっくり来る者が何人いたというのか? 当時アフリカ指向していたジンジャー・ベイカーは、ツインドラムの先駆者で即興ドラム・ソロに圧倒的才を発揮した。数年後、ライブを終えたドラムの芳垣安洋に「今治ミーティング」に話を振ると「それ、僕がドラムをセッティングしていたんだけど恐かった。一度もOKって言わなかったよ」と苦笑いしたことを思い出した。
 「今治ミーティング」が更に記憶に残るのは、ステージが足元の平板な船というか、巨大な浮標を海上に浮かべていたことだった。つまり、出演者、スタッフは総て艀(小舟)でステージの浮標まで渡って登場という訳だ。近藤等則に誘われるまま浮標に渡ると、後ろにももう一個の巨大な浮標があり、つまりバック・ステージがあって、照明音響の発電機から楽屋代わりの部屋から総てをまかなっていた。お客は浜辺から海上のステージを眺めるのだった。
 井出情児の撮影隊のクレーン・カメラが夜空をぐるんぐるん回る先のステージから、微妙に揺れる照明とともに揺れながら爆音をかき鳴らすミュージシャンの光景は、1991年夏、幻のような現実だった。