Flaneur, Rhum & Pop Culture

リトル・ジャイアントがやって来た
[ZIPANGU NEWS vol.14]より
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 1980年5月を迎えようとしていた。「レディ・ジェーン」はライブ始めて2年目になっていた。
 その1年前の或る夜、三軒茶屋からタクシーに乗ると、ジャズ・ギター曲がカー・ラジオから流れてきた。ウェス・モンゴメリーにそっくりだった。
 「運転手さん、ジャズをよく聴くんですね?」と俺の質問に「実はこれ、私の息子が演ってるんですよ」と運転手が言った。
 二・三言そんな会話をしていると、アッという間に「レディ・ジェーン」に着いた。「実はこの店やっていて、ライブも月何回かやってるんですよ」と言うと、釣り銭と一緒にカセット・テープを1本渡された。カセット・テープには名前だけでなく連絡先と売り文句が書いてあった。
 親父はタクシーの運転手をやりながら息子の広報マンをやっていたのだ。今父子鷹の話だが、いかにも下北沢という路地の街を語るに似つかわしいエピソードだと思っている。
 で、80年になってからはそんな縁で、宮ノ上<ウェス>貴昭は「レディ・ジェーン」のライブ出演者のレギュラーになっていた。

 先月号で触れたマルチホール「下北沢スーパーマーケット」は産声あげて2ヶ月目。「レディ・ジェーン」にしょっちゅう出ている亀渕友香が、渋谷毅(p)、川端民夫(b)、古沢良治郎(ds)を率いて出演しているし(俺が自分でブッキングしているのだが)、吉祥寺の「サムタイム」から独立して下北沢に出来たばかりの「T5」などでは、彼女は辛島文雄(p)、金沢英明(b)、大隈寿男(ds)とハウス・バンドを組んでいた。
 寄合い長屋のようなこんな現象も下北沢ならではのらしさだった。

 さて、5月の目玉は「ジョニー・グリフィン・カルテット」だった。
 ケニー・クラーク、ケニー・ドリュー、デクスター・ゴードンらと共にヨーロッパに滞在したアメリカン・エリートだったグリフィンは、78年15年振りに帰国、「リターン・オブ・ザ・グリフィン」を発表した直後の待望の来日だった。
 呼び屋のモン・プロダクションの社長と知人だったことで実現したのだったが、よくぞ場末の小ホールへオープニングを祝しに来てくれたものだった。
 カルテットでの演奏のリトル・ジャイアントは、コールマン・ホーキンス流の迫力とパワーと、レスター・ヤング張りのフレージングを兼ねそなえた奔放で豪快な波状攻撃に圧倒された。

 聖子がデビューし百恵が引退した80年、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、モスクワ五輪への参加を拒否したアメリカの、ベトナム戦争を総括したF・フォード・コッポラの問題作「地獄の黙示録」に百家争鳴している頃、前作「星空のマリオネット」の新鮮な映像感覚で日本映画監督協会新人賞を受賞した橋浦方人監督は、石川県で「海潮音」のロケの真最中だった。
 俺は現在芸大教授となった伊藤俊治と、「スーパーマーケット」のマンスリー・ペーパーで下北沢在住の橋浦方人を5月号で取り上げた。
 そして“マルチホール”に相似しく、「海潮音」完成の暁には「スーパーマーケット」での上映をと願うのだった。