Flaneur, Rhum & Pop Culture

音楽祭のおつりで「スーパーマーケット」
[ZIPANGU NEWS vol.13]より
LADY JANE LOGO












 下北沢音楽祭を終えた1979年の暮れも押し迫った頃。
 祭りの後で放心するどころか、さすがに若くて元気が漲っていたのだろう、俺は実行委員会のメンバー同士だったロック酒場「独」の石坂独と組んで、ライブ空間作りを構想していた。

 それというのも、一定の成功を納めたと自負した俺たちは、また来年も祭りをしようと企画したのだが、来年はその使用地だった土地は、いよいよ本多劇場建設に向って整地が始まるという。
 場所が無かった訳だが、「場」は問題だった。

 若者たちが自我をもって主体的に「場」を形成しようとしないで、マスメディアが煽る紋切型の“若者の街・下北沢”に甘んじているのなら、それは“若者の街”ではなくて只の“若者がいる街”に過ぎない。
 大手の広告代理店が作る流通マーケット、例えばかっての若者の街・新宿へのアンチテーゼとして、「場」を奪還する必要があった。そのことは下北沢文化戦線の基本的な考えだった。

 そうして“場”を作るための空間は、駅前2分のビルで石坂独がやっていた貸しスタジオ「フーズ・フー」の上の階を手に入れた。但し、エレベーター無しの四階だった。
 草分けのライブハウス、渋谷の「屋根裏」を思い出したが、そんな悪条件も無視する程つんのめっていた。

 80年4月11日<夢におつりはいらない―下北沢に文化のスーパーマーケットを!>をテーマに、常打ちホール「下北沢スーパーマーケット」と名付けた「場」は立ち上った。
 スーパーマーケットですから、ジャンルを選ばない各種コンサート、演劇、映画上映、寄席と何でもありだったが、総面積91平方m、キャパシティ150名、スーパーマーケットの大きさには程遠くても、つまりこうだった。

 「Next Stop GREENWICH VILLAGE」(P・マザースキー作品 '76)という名画がありました。小さな一画に多種多様な猥雑さと芸術的香り、そうです“しもきた”は<東京のグリニッチ・ヴィレッジ>といえるでしょう。
 雑居だが可能性の街、つまり、文化のポテンシャル・エネルギーの埋蔵地なのです。
 石油危機の折、大事に使っていこうと思いますが、名付けたのが「下北沢スーパーマーケット」季節の“はしり”をこのホールのメニューに載せたいと思います。
 文化のスパークポイントが、いま始動します。「Next Step SHIMOKITAZAWA」(スーパーマーケット作品 '8×)!

 七六年あたりからだったか、下北沢が関西ミュージシャンの受け皿の街と化し、さしずめ関西ブルース&ロック村の様相だった。
 永井隆、松本照夫、山岸潤史、石田長生、西岡恭蔵、大塚まさじ、入道と切りがなかった。
 そんな中に、デビュー仕立ての阿川泰子や御大山下洋輔に森山威男、東京ヴォードビルショーが混ざり、かくも“いなたい”しもきた文化を、「スーパーマーケット」は巨大な胃袋で吸い込み吐き出してスタートした。

 消費者ではなく2円、3円の“夢におつりはいらない”共犯者と作る祭りの場を、日常的に確保した「スーパーマーケット」を取り上げた、平凡パンチ4月14日号のキャッチコピーは「若者の街下北沢のマイナー・ウェイブに拠点ができた」だった。