Flaneur, Rhum & Pop Culture

私は街の子巷の子
[ZIPANGU NEWS vol.8]より
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 一九六六年、学友のアパートを訪ねて初めて下北沢駅に降りた。
 お茶の水の大学には殆ど背中を向けていたし、そりゃ、全都のダンモの店という店は一応制覇していたが、せいぜい渋谷百貨店の「ありんこ」「音楽館」「ブラックホーク」やらの店以外では、俺の街は当時何が何でも新宿だった。
 ジャズを聴く、映画を観る、芝居を観る、酒を飲めるが新宿だった。
 特に根城にしていた歌舞伎町の「ジャズ・ヴィレッジ」は、ジャズも聴くが女は乱れるスリクは飛び交う時代が突き出た風俗店だった。
 この清濁合わせ飲む場の斜め前にオープンした「ヴィレッジ・ヴァンガード」では、故永山則夫がウェイターをやっていて北野武は客だった。

 で、下北沢の街の匂いはアウトローの匂いだった。
 つまり管理されていない、ポテンシャルなエナジーを感知させる街であり、比喩的にいえば、一人分の若者が抱えている空気容積が大きいという幻想において、正しくミニ新宿とでもいえる磁場の街だった。
 貧乏のくせに引っ越し魔の俺は、経堂、豪徳寺、参宮橋、代々木上原、世田谷代田、下北沢と小田急線各駅停車もどきで移り住んで、七十年頃は新宿と下北沢が半々程の時間割りになり、「レディ・ジェーン」を開いた七五年明け頃は、完璧にその比率は逆転していた。

 であるからして、港区方面などは何処かよそよそしさを感じて近づかず、演劇青年でもあったので、大げさにいえば俳優座に芝居を観に行くか劇団雲の稽古場を覗いた後、「ハンバーガー・イン」に寄る程度だった。
 ところが、店を構えてから色気が出たのか、理屈をこねれば視野を拡げようとしたということだが、それ迄新宿の汚い「タロー」や「ピットイン」の鋭く刺さるハングリーな音のライブに馴染んでいたはずが、夜な夜な青山の「ロフロイ」だ銀座の「サテンドール」だとかに出没するようになっていた。
 特に六本木の「ミスティ」は常連面になった。そして来日コンサートを終えた世界のビッグネームが、アフターアワー・セッション目当てに来店するのを夜毎待ち構えた。
 一時ジャズに対する視点を変えたといえばそうだろうし、ジャンルというものを無視しようとしたといえばそうだろうし、いずれにしても、このジャズ比較文化体験を経ていなかったとしたら、数年後、ジャズとその周辺を巡る音楽の発信=ライブを、自ら展開しようなどと思わなかったかも知れない。

 そんな時期の七八年の暮れの或る日、俺たち三・四人は雁首を揃えてカンカンガクガク或る策暴を練っていた。
 現在の本田劇場がある藤和ビルは、当時空き地のまま放置されていて、状況劇場の赤テントやセンター68・69の黒テントが、たまに芝居をやる程だった。
 詩人、絵画き、写真家の他、下北沢には音楽文化人がゴロゴロいた。マスコミ、メディアは山手線外の自由が丘、吉祥寺と比較して勝手な紋切り型口上をわめいていた。
 そこで空き地に野外スッテージを組立て、下北沢の俺たちで下北沢由縁のミュージシャンを集めて、下北沢発信の地域密着イベントを打ち上げようかという、製作をまったく知らぬ酒場の主たちの無謀な密議ではあった。