Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












ドキュメンタリー映画『下北沢で生きる』完成!
[季刊・映画芸術450号より]

VOL.25

 下北沢の「レディ・ジェーン」の新年の開店は一月五日だった。本来年末にやるべきことだったが、シャッターの水洗い、貼り重なったポスターを剥がした後の画鋲の針だらけの壁の処置、昨年末からシンクの水が流れなくなっていた下水管のごみ処理など、疲れた腰を伸ばし切って夜空を見上げると満月だった。業者に丸投げせずに、てめえ等で出来るところはなるたけてめえ等で、修理してきて開店四十一年目の年が始まる。開店以来唯一残している重い扉は健在のようだが、こちらは満月が出ようとも新年早々吠える気にならない。それどころか二ヶ月先の二月二十八日を一方的契約切れとする大家の出方次第で、俺も腹をくくる用意が生じるだろうから、矜持をもって事に処すことにしている。ややこしい話しだが、駅前広場(区画街路十号線)や環七幅の道路計画(補助五十四号線)に入ってない区画にも、複雑に悪しき症状を発生させているのが、下北沢の再開発計画、正確に言えば、小田急の地下化工事も総て、国交省管轄の道路特定財源という税金で充てる、連続立体交差事業(全国に何十カ所とある)という代物なのだ。こんな企業と癒着したゼネコン国家ならではの所業に世間が振り向かないことに腹立たしさを憶える。
 滅入らせる街なら出て行けばいいじゃないかとなるのだが、その場合は店があることを言い訳にして踏ん張るのだ。そうして開発を強行する行政に抗い続けているのだが、生きる権利を問う〈街は誰のものだ〉という根本問題もある。例えば映画を観る時、成瀬巳喜男監督の『女が階段を上る時』の佃島の二階屋や『女の歴史』の梅丘二丁目の路地に、加藤泰の『みな殺しの霊歌』の旧淀橋浄水上跡に、川島雄三の『洲崎パラダイス』の隅田川は既に失われたが、森田芳光の『家族ゲーム』の別の隅田川に、或いは曽根中生の『天使のはらわた 赤い教室』の雨の新宿中央公園に、特別な感情が湧き上がる。村川透の『白い指の戯れ』で、主人公の荒木一郎と伊佐山ひろ子が、万引きの脚を小田原まで遠出するため、下北沢駅のプラットホームに立つシーンを、歩道橋の隙間からカメラが捉えた俯瞰シーンが忘れられない。現在下北沢で行われているのは小田急線の地下化第二期工事であり、下北沢の道路開発は数年後にもかかわらず、眼前の現象は街の体ではない。〈映画の中の東京〉の光景は揺るぎない郷愁だが、そんな甘っちょろさをぶっ飛ばす恐怖が展開されているのだ。
 今年が羊年だから言うのではないが、羊年だから言うのだが、時は十五世紀後半から十六世紀にかけて。当時マニファクチュアの発達と羊毛価格の高騰があったイギリスでは、共同利用が認められていた耕作地や未開墾地を柵で囲み、他人を排斥して集約農業を行う領主や地主の権力行使が広まった。「囲い込み」運動といわれた〈エンクロージャー〉のことだ。十八世紀のイギリスの産業革命で資本主義が生まれたのなら、その前期の初期資本制とでも言うのか、時の王ヘンリー八世の高官だったトマス・モアは著「ユートピア」で、生活苦に追い込まれて賃金労働者化していく農民と、羊を一方的に囲い込んで堕落して行く支配階級と、その社会矛盾を痛烈に批判して、「羊が人間を喰らう」と書いた。仕事を失った多くの浮浪者の溜まり場になったロンドンなどは、牛の死体や糞にウジや蠅がたかり、テームズ川には屍体が浮かんでそれは醜悪な都市だったそうだ。この時代が生んだ支配と被支配、エンクロージャー、賃金労働制は今の世に厳然と続いている社会の仕組みだ。
 十九世紀末の時代に「人間の本能は壊れている」といったのはフロイトだったが、快楽原理の〈イド=ID〉を抑えるために〈自我=EGO〉という理性概念を西洋近代は持ち込んで、我慢や辛抱を学ばせた。更に〈超自我=SUPER EGO〉という道徳律で社会合理化を計った。この西洋合理主義が資本主義の源で、先進した西洋も後進したアジアも巻き込んで、今や高度資本主義という怪物は世界を地球ごと囲い込んでいるようだ。超自我や自我に自らを抑圧してきた過去を捨てて、イドの趣くまま「これがやりたい」という欲望に准じて、正しく本能が壊れているのである。そこで、旺盛さに負けない日本人は、「われわれは何処から来て、何処へゆくのか?」なる、日本人の来し方往く末を改めて問う本や討論の類いを、最近よく見掛けるのだが、気のせいだろうか。
 「平和とは一杯の飯初日の出」──戦後七十年を迎えた節目の年、東京新聞が募った通年企画「平和の俳句」の一月一日の第一号の句だ。「うむ、敗戦後も乗り越えて、無事生きて来た老人の感謝の気持ちか」などと思って、作者に目をやって仰天した。十八歳の男子学生だった。俳句に目くじらを立てる訳ではないけれど、十八の少年にここまで心情を達観させる時代になったのかと愕然として、腹が立って来た。「植民地政策においてはヨーロッパと歩調を揃えてアジアを抑圧しつつ、しかし、ヨーロッパの諸国に対しては、『自分たちはアジアの一員である』ということを主張する」(「東京人64号」島田雅彦談)というように、敗戦後は米軍の統治下で、羊となってうまく囲われて来た日本人と合わせ、奇異感を感じざるを得ない。つまり、何もかも見たり感じたりしているのに、見ない振りをしている。政治家や学者たちは国の現実から逃れ、市民は自分から逃げている。第二次大戦の敗戦処理から逃げ、原爆から逃げ、朝鮮問題から逃げ、部落問題から逃げ、水俣問題から逃げ、沖縄から逃げ、3・11と原発から逃げて、日本を放棄している。3・11後の映画でも面白いのは何作かあっても、それらの問題を抉ることに至らない。そんな時、ショック療法になるのなら、ジョージ・オーウェルが一九四九年に全体主義の恐怖を書いた小説の映画『1984』(1984 マイケル・ラドフォード)を上映して、その監視国家の悪夢体験を味わってもらいたい。世界的人気のエンタメ作家村上春樹の「1Q84」と間違えないで欲しい。〈世界を敵に廻しても構わない〉という人が、一人いれば〈世界は変わる〉と誰かが言う。
 そう言える人の出現を待ちぼうけの下北沢に戻る。という訳で、『下北沢で生きる』(斎藤真由美監督)と題した、二〇一四年までの十二年間に亘る記録映像を編集したドキュメンタリー映画が完成した。二〇〇七年五月と六月の二日間、「消えゆく街を撮って欲しい」という依頼に応えてくれた荒木経惟が、ライカを手に街に繰り出した時、俺は更に小原真史(『カメラになった男』監督)に記録映像を頼んでいたのだが、その時現場に同行していた柄本佑がナレーションを引き受けてくれた。勿論、アラーキーの撮影風景も挿入した。同年に始まった「シモキタヴォイス」というイベントに、一昨年、昨年と二年続けて出演し、シモキタの街の書き下ろしエッセイを朗読してくれたよしもとばななもいる。もっともっと、例年の「シモキタヴォイス」イベントに参画してくれたシンポジウムのパネラーの皆、記憶に残るライブを展開してくれた出演者の皆は限りなく溢れて、二〇〇三年、世田谷区が再開発計画を電撃発表して以来、賛成派も反対派も混然と揺れ動く街と人が記録されている。映画として一級品だなどと決して言わないが、再開発計画がもたらす波動がビリビリと分かり易く伝わるようには仕上げたつもりだ。アッ、下北沢トリウッドの大槻貴宏が上映の打ち合わせをしましょうと電話だ!
 ところで、真言宗の寺院で世田谷の玉川大師の入口には石羊が一対ある。食欲旺盛、繁殖旺盛、後は寝るだけの羊は人間の欲望と同じだから、羊のようになってはならぬとの空海の戒めだそうな。「異生羝羊心(いしょうていようしん)」とは、空海が名付けた最も劣った生活意識や心のあり方だと。俺ではないぞ!