Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












〈意識〉の半導体を操った新しい波
[季刊・映画芸術447号より]

VOL.22

 今年三月十七日は満月だった。翌日例年に二週間遅れて春一番が吹いて、下北沢にあるわが家の狭い庭をそれなりに賑わしていた桜桃の花が散った。夜、十六夜の月に雲がかかって、「月に叢雲花に風」の故事を変化させた「花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ」という寺山修司的常套句が浮かんだ。日本の自然は凄い。一瞬にして人の心を欝にする力を持っているのだ。いや違う、こんな世の中に欝でいる心を自然が慰めてくれるのだ。
 「わずかな雲が、月にむかって進む。月は満月である。次いで、若い娘の顔。その両眼は、いっぱいに見ひらかれている。その眼のひとつにむかって、剃刀の刃が近づく。今しも、薄雲が月の上を過ぎようとする。剃刀の刃が、娘の眼のひとつを横に切り、二つに切断する。空のカット。雲が月の前を過ぎる。あたかも、月をふたつに切断するかの如く。」(ラヴァン・セーヌ誌編集部)──中途で読者の半分は分かったと思う。ルイス・ブニュエル監督の十七分の無声映画『アンダルシアの犬』('28)の、語りぐさになった凄みある残虐なシーンが浮かんだ。月暈(げつうん)になれば、歌人なら短歌が浮かぶのだろうが、俺の場合、月に雲と並べば決まって先の一文か、『アンダルシアの犬』の一場面だ。 三月が終わったばかりなのに、親しかったミュージシャンが二人、音響技師が二人死んだ。死のイメージが脳裡を離れずに誘う。海の向こうの話、二〇〇五年のアカデミー賞主演男優賞を受賞して、チャーリー・カウフマンが初監督した『脳内ニューヨーク』('08)の主演俳優だったフィリップ・シーモア・ホフマンが、二月二日、ニューヨークの自宅の浴室で、腕に血が逆流した注射器を刺したまま死んだ。賞金で買った巨大倉庫内に、ニューヨークを作り上げた主人公は、脳内の幻想をフル稼働させて現実のニューヨークと対峙する。かつて、唐十郎が幻想で新宿と闘ったように。それは、現実のホフマンにすれば、薬物の過剰摂取に陥っていた訳だから、映画的虚構と現実がトランス状態にあった訳で、キューピー顔にマシュマロ肌のぽっちゃり型で、ゲイ役が多かった性的な身体も含めて、生死を賭けてというより、死に極めて近寄りつつ〈俳優〉という異常な領域を行動していたことになる。恐るべし弱冠四十六歳の死だった。
 ガブリエル・アクセル監督が永眠したのは二月九日だった。享年九十五歳! 故郷デンマークに戻って作った『バベットの晩餐会』('87)は、パリコンミューンで父と息子を亡くしたバベットが、姉妹が住むデンマークの寒村にやってくる。くじに当たった金でパリの三ツ星レストランのシェフだったバベットは、村人のために豪華絢爛たる料理に腕を振い晩餐会を開く。麗々しい食卓に、貧しい漁民たちと鄙びた家屋で味わう一生に一度の料理風景が良い。映画は人情味で味付けされていて、且つ、凛とした空気感が画面を引き締めていたよ。
 かつて新東宝の『スーパージャイアンツ』('57〜59 石井輝男監督)全九作のヒーローだった宇津井健が三月十四日に八十二歳で亡くなった十三日後、朝倉摂が九十一歳で大往生した。長く舞台美術の第一人者であり続けた人だったが、六〇年代後半から所属していた演劇集団・変身の舞台美術は殆ど摂ちゃん(大御所を皆そう呼んでいた) だったはずだ。入団する直前だったと思うが、「セーヌ・エ・オワーズの陸橋」という舞台が頭に残っている。何故かと言えば好きなマルグリット・デュラスの戯曲だったからだ。デュラスの本は小説だろうが戯曲だろうが、大抵、殺人犯罪がベースにある。しかしその犯罪は現実なのか作りごとなのか、誰が犯したのかは曖昧なのだ。それよりも、犯罪に脳内を刺された主人公の幻想や内面に引っ張られて、筋道から逸脱する。その手法はヌーヴォ・ロマンまたはアンチ・ロマンと言われた。
 三月一日、アラン・レネが亡くなった。摂ちゃんと同じ九十一歳だった! 一九五九年、広島にてオールロケで撮り終えた『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』は、『夜と霧』('55)で世界に名声を得ていたレネの長編一作目で、代表作と言われている。俺もそう思っているので何度か当欄でも触れている。広島にロケにやってきたフランスの女優(エマニュエル・リヴァ)が、日本の建築技師(岡田英次)と出会い、一夜の男女の仲になる。ナチスの占領時代に拭えない過去を背負った女のヌベールの町の記憶と忘却は、男のヒロシマの記憶と忘却の綯(な)い交(ま)ぜの中に顕在化したり埋もれたりして、映画内現実たる画面は進んでいくが、話は進んでいかない。停滞した物語りはダイヤローグではなく、二人のモノローグで繰り返され、映画は観客とともに止まった時間のまま映画的時間を進行する。小説のように、意識の流れを、思ったままを映画内現実に投げ込むと画面に〈今〉が生まれるが、互いが、ヌベールかヒロシマか、かつてのことなのか今のことなのか、君の出来ごとなのか自分の出来ごとなのか、空間や時制が曖昧化されて、観客は停滞して苛つく。初映画脚本をデュラスに依頼して試みた、レネの〈アンチ・ロマン〉映画だった。デュラスを確信犯的に引っ張り込んだ初の〈意識の流れ〉映画だった。
 デュラスと同じアンチ・ロマン派にいた作家・アラン・ロブ=グリエにやはり初脚本を依頼した、次作『去年マリエンバートで』('60)になると、非物語り性や時制解除は更に進化した。と言うより、五〇年代〈文学とその方法〉で論争を巻き起こした作家が、その手法を取り入れようとして、レネと意見が一致したのだ。二人の男と一人の女 (デルフィーヌ・セイリグ)は、去年マリエンバートで会ったのか会わなかったのかも分からない。故に今の時間も会っているのかどうか不確かで、決めるのは意識だけれど、意識は錯綜していて不確かさしかない。行動としての出来ごとも不確かで、ただ、映画内〈出来ごと〉だけが、〈今〉として画面を進行させているだけなのだ。
 第三作目の『ミュリエル』('63)も、やはり作家・ジャン・ケイヨールの脚本に依る。記憶と忘却と思い出が、過去に行ったり現在に行ったり、時間が錯綜するアラン・レネの作家的方法論を解読するに適した、典型的な映画かも知れない。日本公開は十年以上経った一九七四年だったが、 『ミュリエル』の登場人物は、『去年マリエンバートで』のように物語りを拒絶してなくて、自分を物語るように描かれている。劇中でリタ・ストライスが歌うジャン・ケイヨールの詩が、“姿を見失い 人生の筋道を混ぜこぜにしてしまう……”とアリアで歌われる時、北フランスの田舎町に住む〈今〉とアルジェリアの〈過去〉が、肉体から剥離して混然となるのだ。そして、骨董屋の未亡人(D・セイリグ)は、元夫の連れ子だった息子がアルジェで死なせた、少女ミュリエルの名前に観念が反応する。一度も出てこないミュリエルは〈他所〉の象徴であり、 〈ここ〉ではない。にも関わらず〈他所〉であるアルジェリアは〈ここ〉なのだ。
 長編三作が本質的には、レネの作り上げた独自の作家技法だと思っているが、一九六七年の封切り時に、『ミュリエル』より先に観たのは『戦争は終った』だった。スペイン内乱時、パリに移り住んだ男の、二十五年間の反フランコ闘争を描いていて、日本は〈政治の季節〉、面白くはあった。だが、以後の『薔薇のスタビスキー』('74)も『プロビデンス』('77)も技法は違っていた。
 良いとか悪いとかの話ではない、小説作法を映画に持ち込んで、フラッシュバックの連弾と内的浮遊をして、演劇より時制で劣る映画に向った知の人は、アニエス・ヴァルダやアンリ・コルピのセーヌ左岸派のリーダーとして、ゴダール、トリュフォー、シャブロルのセーヌ右岸派と、ヌーヴェルヴァーグを牽引した、青春時代の最も輝かしい映画人だったと言い切れるだろう。
 もっと誌面があればその時代を書けただろうが、冒頭で情緒に触れたから。