Flaneur, Rhum & Pop Culture
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〈どこでも通用するもの〉に向う人とは共生できない
[季刊・映画芸術444号より]

VOL.19

 冒頭から言い訳じみて恐縮だが、全く忙しい日々が続いて月も越えて今日七月六日の深夜にやっと机に向い始めている。中でも韓国からサックス奏者の姜泰煥(カン・テーファン)を招聘して、踊りの田中泯始め、ピアノの佐藤允彦、パーカッションの高田みどり、ドラムの土取利行などを共演者に選んだツアーを、六月二十二日から二十九日まで組んだのが、身から出た錆とはいえ他のことを一切拒絶した。
 七月四日にユーロスペースで『舟を編む』(石井裕也監督)を観て、有楽町スバル座で『さよなら渓谷』(大森立嗣監督)をハシゴして、その後『共喰い』(青山真治監督)を観た。このところ映画をすっかり無沙汰していたので、原稿に向う気分とネタが欲しかったのだ。で、スバル座! 何年ぶりだろうか? 一九六八年に『異邦人』(68 ルキノ・ヴィスコンティ監督)を観たのは憶えている。主人公の青年ムルソーが倦怠感を漂わせて、「太陽が眩しかったから」という理由で人を撃ち殺す原作者カミュの〈実存主義的不条理〉が、時代精神を浴びた若者には違和感無く入ってきたし、ゴダール以外の監督映画のアンナ・カリーナがひどく魅力的だった。舞台となったアルジェリアはフランスの植民地でカミュの生地でもあった。『アルジェの戦い』(66 ジッロ・ポンテコルヴォ監督)のドキュメンタリータッチの名画が、べトナム戦争下の現実とダブった。以来だろうか? そんなことは無い、忘れているだけだ、否そうかも知れない。俺の映画館の本拠地は新宿だった。新宿文化、日活名画座、京王名画座、シネマ新宿、新宿ローヤル、新宿テアトル、昭和館、アート・ビレッジなど邦画洋画ピンクと揃っていた。だがスバル座には足が向った。スバル街という有楽町駅前から日比谷通りまでの猥雑な佇まいの裏通りがあって、「ママ」というジャズ喫茶があったからだ。ジャズもキーヨ始め、汀、びざーる、木馬、ポニー、キャット、ベイビー・グランド、ヴィレッジ・ヴァンガード、ヴィレッジ・ゲート、バードランド、決定的な溜まり場ジャズ・ビレッジと当然新宿だったが、映画館とジャズ喫茶はセットだった俺にとって、ママは新宿DIGのように私語厳禁、正面のスピーカーに向ってテーブルが鎮座して並んだ作りは苦手だったが、スバル街は格好だった。ついでを言えば、スバル座と裏手がくっつくように、日活国際会館があって上は日活ホテルになっていたことも大きな刺激だった。昭和三十一年から日活映画に一番狂っていたし、なにせ昭和二十九年にはマリリン・モンローが宿泊したホテルだった。今はホテルのザ・ペニンシュラ東京になっている。
 「なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない」と書いたのは、平成二十三年度下半期の芥川賞を、田中慎弥の「共喰い」と同時受賞した円城塔の「道化師の蝶」の一文だ。小学生の遠足ではない。映画館に行くことは映画の始まりであり人生を選択しに行くのだ。ジャズ喫茶で彼のレコードを聴くことは人生を決めることだ。「観客と映画会社との予定調和の上に成り立つ映画なんて真っ平だ」と言ったのは大島渚で、「悪強くなれば天に勝つ、勝てば官軍それが正義になる」といって時代に抗ったのは木下惠介だった。韓国にもキム・ギドクという監督がいて、ベルリン、ヴェネチアと監督賞を獲り続けて、二〇〇八年オダギリ ジョーが出演した『悲夢』で女優を生死に関わる事故にまで追いつめて、世間と接触を断ち、ソウルから東へ車で一時間行った京畿道(キョンギド)の楊平郡(ヤンピョングン)の廃屋に引きこもって自炊生活を始めた。ギドクの凄いことは、それをも撮影して二〇一一年カンヌに持ち込むと、「ある視点」部門最優秀作品賞を獲ってしまったことだ。去年の六月、下高井戸シネマに観に行くと、嘆き、あがき、哭きわめくキム・ギドクがいた。本人は「ドキュメンタリーのようで実はドラマなんです。僕の中に監督と俳優が同居している。区別することはとても難しい」なんて語るが、こんな物を観せられた方は溜まったもんじゃない。気分悪く映画館を出たが、続いて二〇一二年撮った最新作『嘆きのピエタ』も同年ヴェネチアで最高賞金獅子賞を受賞した。驚くべき才能は人間の欲望の根源を映画で抉り続けている。韓国はこんなヒーロー監督がいるだけ幸せだ。日本の〈世界の北野〉なんかここ数年面白くも何にも無い。通説に流される映画界よ!
 過日亡くなった岩波映画出身の監督岩佐壽彌のドキュメンタリー映画『叛軍No.4』(72)は本物の反戦自衛官に虚構の帝国陸軍兵士を対峙させるし、『眠れ蜜』(76)も根岸季衣、吉行和子、長谷川泰子の三世代の女優の、虚実の相克から内面に入り込みドキュメントと劇の越境を試みていた。〈カメラは私〉である点に於いて、どんなドキュメンタリーもあらかじめフィクションだと言える。ジャンルじゃないよ。それにしても〈3・11〉後、何と多くのドキュメンタリー映画が出現したことか。宗旨替えした監督の〈ポスト3・11〉劇映画も多くある。〈プレ3・11〉劇映画には何と多くの犬や猫が登場していたが、3・11で状況が変わったのだ。豹変する映画人たち。ハッキリ言えることは昔生き方を決めた映画が今は役に立たないということか。
 カンヌ映画祭を持ち反ハリウッド政策を保持してきたつもりのフランスも、今や〈金持ち大衆映画〉と〈貧乏作家映画〉に二極化されているようだ。ハリウッドが、配役、配給、上映の製作に於いて一番重要な価値に置く〈観客動員〉の増員に向うのなら、製造業の車屋と同じで効率や能率が重要視され、映画館はシネコンになるのは必然だ。今日、観客と選挙民はよく似ている。この号が世に出る頃には、参議院選挙も終わっていて、ねじれ国会も解消されて、原発再開、TPP促進始め、〈3・11〉なんて何ごとも無かったかの如くことは運ばれて、ディズニーランド化した映画館は洗脳客をますます吸い込んで行くのだ。戦後の占領軍時代にGHQが取った〈3S作戦〉のことはいつか書いたことがあるが、一にセックス、二にスポーツ、三にスクリーン、懐柔作戦は戦後六十八年経ったいまでも続いているとは、この国は独立の体を成してない。
 ロングランのお陰で今頃観られたのだが、『舟を編む』が良かった。辞書作りの話で、指の腹だけでめくれる紙質を映画内でぬめり感と言ってたが、その〈ぬめり感〉が全編を覆い、十五年もの長き歳月を一冊の辞書作りに託す時間がゆっくりと、時にスピード感を持って過ぎてゆく。〈静流感〉とも言える世界に身を預けられる映画だった。
 『さよなら渓谷』が六月二十九日、モスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受けたとニュースが報じて、反射的に新藤兼人の『第五福竜丸』(59)が興行的に失敗に終わり、近代映協が解散の危機状況で翌年撮った『裸の島』がモスクワでグランプリを獲って危機を脱した歴史を思った。レイプされた女がレイプした男を振り払うように、暗く波打つ海岸線を延々と歩く、やがて陸橋に立ち上半身を乗り出す女、いつの間にか距離を置いて見つめる男、「私あんたが逃げたかと思った。……だけど戻ってきて欲しかった」──レイプという犯罪の関係性から、二人で不幸になろうと〈生きていく確信〉を持ったこの瞬間が良かった。救いだった。
 水嵩のない汚い川が陽に照らされて乱反射する。『共喰い』のファーストシーンだ。それだけで対岸の下関の地の物語りでも、監督がこだわる〈北九州サーガ〉の匂いがした。抗えぬ父と子を巡る伝説は、地方都市、しかも昭和には現実として善悪を越えてあったし、都会や平成ではそれを嘘と誤謬で隠蔽しているに過ぎない。〈戦後〉は終わってなんかないのだ。
 だから、これらの映画があることは、日本映画の足腰に大事なことなのだ。