Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












「桜んぼの実る頃」をまた歌うために
[季刊・映画芸術441号より]

VOL.16
 例えば、使っている家電が壊れたとする、或は誤作動が起こって操作方法が分からなかったとする。メーカーのサービス担当窓口に電話をすると、機械音声が相当する用件を一番から四番の中から選んで押せという。これを何回か繰り返しやっとオペレーターに繋がり送信音がなる。何回かコールした後「只今窓口が大変込み合っています。お掛けなおし戴くかこのまま暫くお待ち下さい」と、また機械音声が言う。俺の経験値で言えば一〇〇%そうで、そこからも辛抱強く何分か待たなくては、希望する用件の窓口に到達しない。家電じゃなくて緊急を要する事案だったらどうなるのか。即時的な情報の伝達と受信は機能しておらず、情報という世界像の均質化というか希薄化を進行させるばかりで、最大のメリットであるデジタル化の速度と便利は何もなされていない。そればかりか、ストレスを日常的に蓄積している。日本ばかりか今世界は〈情報ホリック〉の海で溺れている。知りたい情報は今時誰でもスマートホンやアイホンでやっているのだろうが、何をそんなに知りたいのだろうか? 人は〈思考する像〉から離れて〈反射する像〉を強いられる。
 九月末の東京新聞「大波小波」氏が「(テレビのクイズ番組で)一番高度で真剣なのは、学校の名誉を懸けた高校生同士の対決だろう。超難問も楽々とクリアする博識には感嘆のほかないが、コンピュータ同様に知識を詰めこんだ頭脳の将来には、イソップの母蛙の例も思い出され、一抹の不安を感じずにはいられない」と。また「赤川次郎『ネット社会の闇』が、地球上のほとんどすべての場所を空から探すことのできる『グーグルアース』に対して、自らを『神の視点』に置いて危ぶむことのない発想」と懸念を表明している。勝ち組いじめ組の病巣だ。その癖“何何させて戴いた時に……”とか妖しい謙譲語を使って確信犯から逃げる卑怯性や、“今この電話大丈夫ですか?”などと電話の開口一番に言われる慇懃無礼が常套文句になっている。誰からの電話か表示されるので分かっている。留守番機能もあるので、よろしくなかったら電話を取らないよ。ここにも均一化の症状があり「もしもし」の挨拶とは違う。
 今夏のロンドンオリンピックの開会式だったか(興味は無いが)、たまたま見たセレモニーで現れた巨大な煙突の出現は衝撃的だった。それは世界を隷属した海賊の国イギリスが、原料と市場を略奪確保して、十八世紀末に世界に先んじた文明、産業革命の象徴だった。〈機械文明〉の黎明の時代現象であって、先進国だぞ!という証を究極的には平和を目指すというオリンピックの場で恫喝した訳で、今や世界の経済を歪めたリーマンショックがそうであったように、デジタル資本主義という〈金融資本主義〉をアメリカとともに仕掛けてきた。この覇権主義国が今世界を支配する未来の文明三要素が〈エネルギーと食と水〉だ。ここでは更に恐るべき世界が人造されている。
 ITエレクトロに続く巨大なバイオテクノロジー(生命工学)で〈エネルギーと食と水〉の世界支配を狙うアメリカは、遺伝子組み換え(GE)のトウモロコシや大豆からのバイオ燃料が石油に取って替わり、農薬に強いGE作物を大量に生産して農業国に輸出している。GE作物からは枯れ葉剤、PCB、牛成長ホルモンが売り出され、環境にとびだしたウイルスは癌、狂牛病、鳥豚インフルエンザを産み出して、原発がもたらした白血病や癌の恐怖に更なる恐怖を蔓延させている一方、アメリカは既に水大国のブラジルの水をGE汚染される前に厖大に買い占めて、地球上の水不足から抜け出している。日本も中国に山を買い占められた。アメリカの多国籍企業のビジネス戦略を暴いた『モンサントの不自然な食べもの』(08、監督 マリー=モニク・ロバン)はカナダとフランスが共同製作した強烈なドキュメンタリー映画だ。世界のGEの90%を握るモンサント社にビル・ゲイツは資金を投資して次は食の世界支配を企んでいる。
 「恥なき国の恥なき時代に『人間』であり続けることは可能か」と日本人に問いかける辺見庸著「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」で「(日本人の)生体がデジタル機器の端末と化している」と物食う人は言う。その後、三・十一の被災で一九四五年八・十五の再来の変わり身を見せた日本市民は、経済原理を総てに優先させる為政者に又もや騙された。原発推進派が導入を画策した「レバ刺しを放射線で殺菌して食べられるようにする厚生労働省」の放射線照射食品の実験が再検討されていて、片や大飯に続いて大間原発が再開した。国の主権無きポチは主人の言うがままで、今後控えるTPPが恐ろしい。
 映画はそんな時代に映画でしかないのか、映画は人一人救えるか、などフレーズを引き出して、早く映画のことに話を持って行かなくちゃと思っていると、吉田豪著『サブカル・スーパースター欝伝』なる本があった。“サブカルは四〇超えると欝になる”という命題で、リリー・フランキーや菊地成孔など十一人の有名人にインタビューしている。相当の悲惨な体験をそれぞれが語っているが、自分を対象化して笑いを取る器用さを各人が有している。それが救いになっているのだが、六十七歳の俺には救いにならない笑いだ。つい先日「レディ・ジェーン」のこと、何回か入退院を繰り返していた欝病の某ミュージシャンが退院してきたけれど、「数日後のライブにはとても演奏できません」と、悲痛な声で電話を受けたばかりだったし、八月二十五日、二十六日の、六年続ける下北沢の再開発に異議を唱えるイベント「シモキタヴォイス」の不満が払拭できず、俺は似非鬱病の状態だったからだ。対象化など出来るものではない。
 ドイツ映画『ブリキの太鼓』(79、監督 フォルカー・シュレンドルフ)がふと浮かんだ。ドイツの作家ギュンター・グラス原作。一九五四年、精神病院でオスカル・マツェラートが自らの反省を語る。第一次大戦と第二次大戦の間のダンツィヒの街で、三歳で大人になることを拒否し自ら成長を止めた少年オスカルの目を通した世界の物語だ。次いでSF映画『ブレードランナー』(82、監督 リドリー・スコット)だ。フィリップ・K・ディック原作の最終戦争後の荒廃した世界。人間と電脳アンドロイドの戦いで、人間に情けをかけて涙を流すアンドロイドを思い出し、人間という奴は何なのかと改めて思う。
 三週間前、庭の高く伸びた桜んぼの木の毛虫退治をした葉が枯れ落ちて、狭い門扉から玄関まで醜く地面にへばりついている。毎年五月になると撓わに桜んぼが成って思い出す。「桜んぼの実る頃」という古いシャンソンだ。先述のイギリス産業革命が欧州に飛び火した一八七一年、第三共和制の悪政に立ち上がった史上初の革命政府パリ・コミューンは、たった二ヶ月で潰されてしまったが、参加した市民に歌われた恋の歌だ。コミューンの一員だったジャン=バチスト・クレマン作詞、アントワーヌ・ルナール作曲のこの歌は、イヴ・モンタン、コラ・ヴォケール、ジュリエット・グレコらに歌われたが、ジブリアニメ『紅の豚』(92、監督 宮崎駿)や『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(07、監督 若松孝二)でも流れていた。何故だろうか、異境の歌が圧倒的リアリティを持って響いてくるのだ。アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(58)のテーマ曲であるオギンスキーの「ポロネーズ・祖国との別れ」のように。「この一篇を持ったということは、さまざまな名目を掲げて人殺しをして生き残っている私達が映画の上でなし遂げた殆ど唯一のかなしい贖罪である」と埴谷雄高に言わしめた、同じワイダの『地下水道』(56)には、五十五年を切り結ぶ『ソハの地下水道』(11、監督 アグニェシュカ・ホランド)があるというのだから、ポーリッシュ・リアリズムは凄い。人殺しをして生き残っている私達をして。