Flaneur, Rhum & Pop Culture
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ヒロシマ・フクシマ・シモキタ又は原爆・原発・開発
[季刊・映画芸術438号より]

VOL.13
 二〇一一年を振り返って、天空地上水中を自在に操る竜神の如きなって、新たな年を迎えたいと思えども、何を思えば良いものかさっぱり着想が出来ない。そりゃそうだ、月の満ち欠けで睦月、如月、弥生と十二ヵ月を決めた人の知恵は偉いけど、今日の偉い人が発揮する知恵は相当な悪知恵で、浅知恵しか発揮できない俺たち一億何千万人を操ろうとしている。二〇一一年から二〇一二年へと変幻したいと願うけど、一年一年で区切る意味が無い。一月一日の元旦は地球が一日年を取っただけとも言える。津波による大被災とそれより遥かに巨大な原発被害からの再生は、向こう半世紀は掛かるというのに、政府は平気で「原発事故収束宣言」をするかと思えば、原発の安全研究の独立行政法人であるらしい「原子力安全基盤機構」が、年間二百億円の予算(税金)の多くを原発関連法人やメーカーに外注費として丸投げしている最中にも、事故は起こり、行政の遅々として進まぬ災害処理の隠蔽や虚偽が次々と露になってきている。年の漢字という「絆」には笑止千万、〈日本はひとつ〉ではありません。上げるなら「偽」という漢字が最適だ。
 〈人が為す〉人災故に「偽」が最適だというのだ。
 二〇一一年の訃報第一弾は、松も取れたばかりの一月十二日、七二年からの付き合いだったジャズ・ドラマーの古澤良治郎から始まった。ボブ・マーレィ公演やアストル・ピアソラ公演でバッタリ会った記憶が鮮明だ。と言いつつ、それでも昨一年を振り返ると、4月になって、『黒い雨』('89 今村昌平監督)で、被爆少女を演じた田中好子が癌で死んだ。風呂場で頭に櫛を持っていくと髪の毛がバッサリ落ちた。七月十九日には、立派な死に様を見せて戴いた原田芳雄の最後の作品『大鹿村騒動記』('11 阪本順治監督)が、やんややんやの上映中だった。日を置かない八月七日はジョー山中が肺癌で死んだ。『人間の証明』('77 佐藤純彌監督)の哀れな混血児役と、最初に出会わしてくれた山際淳司とのことが偲ばれた。山際がまだ週刊サンケイのグラビア記者だった頃のことだ。九月二十一日、歌人で作家、わが拙著の出版を快く受けて戴いた、幻戯書房の辺見じゅん社長が急死した。六月二十五日の出版記念パーティの直後のことだった。九月二十四日、『けんかえれじい』('66)の対の作品だと思っている鈴木清順監督の『悪太郎』('63)の山内賢が癌で逝った。“行こうか戻ろうか オーロラの下を”と、和泉雅子が何度も唄う「さすらいの歌」は、トルストイ原作の「生ける屍」の松井須磨子が唄った劇中歌だが、北原白秋作詞、中山晋平作曲の同曲が、時代背景となった大正の、ソヴィエト・ロマンを讃える。山内賢扮する旧制中学生の東吾は高橋英樹扮する麒六の別名だった。十一月二十一日、遂に立川談志逝く。談四楼や志の輔は八〇年代初期から親しくしているが、一門の仕切は大変だろう。十二月一〇日、TBSドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」('82高橋一郎演出)の脚本で、第一回向田邦子賞を受賞した市川森一が肺癌で亡くなった。「◯◯さんじゃなくって、この人市川森一さんね」と、桃井かおりに紹介されたことが、昔ながらに何故か浮かんだ。十二月二〇日、順番じゃないのに森田芳光監督が急性肝不全で死んだ。翌日広島行きを控えてバタバタしていた時に、誰から知らされたか、一番衝撃的だったかもしれない。もう脅しに近かった。多少とも口を交わしたり交友した人に限ったが、どれほど多くの人が彼岸に引っ越していったのか。自殺した人が多くいたのに、この国ではもう馴れっこなのか! 東北じゃ死者一万六千人、行方不明者三千五百人だという。
 十二月二十二日、広島行きの新幹線内でふと続きを巡らせる。Jリーグ浦和レッズの初代監督だった森孝慈が七月に死んだな。メキシコ・オリンピックの銅メダルの選手で広島で一期先輩だった。八月には二葉あき子(広島二葉出身)が九十六歳で大往生した。昭和二十七年、彼女の「夜のプラットホーム」を聞きながら、広島人になるために乗った急行安芸号は、東京から広島まで十七時間掛かったな等と、一人思いを散らせていると四時間で広島に着いた。
 翌二十三日は谷川俊太郎の詩の朗読と「DIVA」という詩だけ選んで歌曲にするユニットのステージだった。「第八回 川の町でミーティング/詩は歌に恋をする」という催しだった。お客の一人に渡部朋子という女性が来てくれた。ここからは極めて個人的な話になる。三年前のことだ。主催のオリエンタルホテル広島に請われて、新たに「川の町でミーティング」という広島らしい企画を立てて、中国新聞社と広島エフエムの後援を取り付けて、〇九年の三月に「第一回 川の町でミーティング」をスタートさせた。出演者は、奇しくも同じ谷川俊太郎と「DIVA」の作曲・ピアニストの谷川賢作、それに歌・ギターの小室等だった。その時「ホテルから『文化』を発信する試みが、広島出身のプロデューサーによって…」なる新聞記事が顔写真入りで掲載された。俺には被爆死した年の離れた従兄弟夫妻がいた。昭和二十年八月六日、その子供手島秀昭二歳、俺〇歳。写真を見た五十年間会ってなかった秀昭が「どうもユタカ君じゃないのか? まさかぁ」と、ホテルに訪ねて来たのだ。その時、秀昭に「妹だ」と紹介されたのが渡部朋子だった。
 どう驚けば良いのか、六十半ばで従兄弟の子供の妹に初対面とは。すると彼女は、八〇年代に特定非営利活動法人ANT-Hiroshimaを発足させ、広島から平和を伝える市民運動の代表で、国際交流や支援に国内外を飛び回る女戦士だった。三ヶ月後の六月、「ピカドン・プロジェクト」を立ち上げていた黒田征太郎が、「ヒロシマ・ナガサキ議定書を読む絵本」を出版して、「YESキャンペーン」の記者会見をオリエンタルホテルでやった時、テーブルに雁首を揃えたのは、黒田征太郎、YESキャンペーン事務局代表渡部朋子、ホテル内外装をしたデザイナーの内田繁、総支配人の荒木潤一と俺だった。入り組んでいるのに何と簡単な組み合わせだったのか。昔わが「ロマーニッシェス・カフェ」のデザインを頼んだ関係で、内田繁が俺を企画者に呼んでくれたホテルが広島だった。すると俺が偶々広島出身だった。その年の夏、内田繁はホテルギャラリーで「PIKADON NO YES/ピカドンを越えて」の黒田征太郎イラスト&写真展を企画して、俺は原爆忌三日前の八月三日、「第三回 川の町でミーティング/核兵器のない未来に/ピカドンを越えて」を企画した。東京からおおたか静流、ウイーンから内橋和久に音楽で加わってもらい、黒田征太郎がライブ・ドローイングをした。トークで出てもらった広島在の音楽評論家・東琢磨は、ヒロシマ映画祭実行委員でもあり、東京の大学でも教鞭をとっているが初対面だった。著書「ヒロシマ独立論」に惹かれて声を掛けたら来てくれたのだ。そうやって又別の出会いが始まった。

「渡部朋子様
 大木さんを通じて資料を戴きました。私は基本的に詩を書くことを業として いる者で、議定書の言葉が機能する次元とは少々異なる次元で、詩の言葉を機能させたいと考えています。議定書の文体はどんなにやさしく「翻訳」しても、その本質は変わらないと思います。回り道ではありますが、私は詩を通して核をなくす方向をめざしていますので、ご依頼に応えられないことをどうかお許しください。」

 ヒロシマ・ナガサキ議定書が余りに官僚的文章なので、子供でも読めるようにと、三年前俺が「翻訳」を取り次いだ時、依頼主に宛てた谷川俊太郎の返答だった。俺は詩人の魂を見た。
 十二月二十三日「川の町でミーティング」が終わったロビーで、「あの時の渡部朋子さんですよ」と谷川俊太郎に紹介した。彼女は今年作られたドキュメンタリー映画『はだしのゲンが見たヒロシマ』(石田優子監督)の企画者でもあった。初対面の関係が関係を生んで粘土のように捏ねられて行けば、地球も人も息が出来るようになるかも知れない。