Flaneur, Rhum & Pop Culture
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反広島から反米へ。広島の少年、東京へ行く
[季刊・映画芸術433号より]

VOL.8
 一昨日の九月三十日、ホテルに依頼されて定期的に企画制作をしている広島で坂田明トリオのコンサートをやった。ラストの前の曲が、谷川俊太郎作詩、武満徹作曲の『死んだ男の残したものは』だった。水谷浩章のベース・ソロで始まったアドリブ・プレイが、歌の世界の風景を作ってゆくと、黒田京子のピアノが更に激しくその光景を変形増幅させていき、俺の想念の目には原風景の廃墟が現れた。そこでやっとテーマに入るが坂田明は歌わない。「死んだ男の残したものは 一人の妻と一人の子供……」とホーメイのように、浪花節のように喉を潰して唸るように語り始めた。音に合わせつつ詩の言葉による感情を微妙に抑揚させて三コーラス終えた後、トリオ演奏となってサックスが咆哮すると、客席は興奮状態になって来た。最終コーラス、「死んだ兵士の残したものは 壊れた銃と歪んだ地球 他には何も残さなかった 平和ひとつ残さなかった」が終わる頃には、チャペルの場内には込み上げるものがあって、客の多くは目を赤くした。居酒屋の打ち上げの席で俺が「『PAD』憶えとるじゃろが」と坂田明に言うと「おお、『PAD』か、あったのう」と言ってちょっと昔になった。「PAD」という広島の繁華街にあったジャズバーがことの始まりだった。高校の入学式で会った如何にもませてそうな大森真亊はクラリネットを片手に「わし、楽士になりたいんじゃ、こんなぁ、ジャズ知っとるか」と言って連れて行かれたのが「PAD」だった。バーなので夕方六時まで平和公園や図書館か何処かで待つのが日課になった。当時のハードバップのファンキー・ジャズは、麻疹にかかったようにたちまち取り憑いた。十五歳だった。
 七月十四日、やはり広島でコンサートを終えた翌日、急に思いついて駅前を徘徊した。JR新幹線口は北口にあって、そのままタクシーで通り過ぎるだけで、南口の駅前は四十五年くらい行ってなかった。金を出したことは無かったがよく恐喝された、洋画館「ライオン座」のあった駅前デパートの裏界隈を廻った後、前号に書いた、昼は市民の胃袋の欲望を満たす市場だが、夜は大人の下半身の欲望を満たすパンパン地帯に顔を変えていた元一大闇市を四十五年振りに覗いた。一店一店が広くなってて当時のひしめき合った感じは無い。路地は全く同じだったが、国鉄の柵を背にして並んでた、客がよく二階に消えていたホルモン屋の並びはJRの倉庫になっていた。反対側に出ると山陽線の愛宕踏切だ。その愛宕踏切の真ん前にある「つるちゃん」という食堂に入る。五、六十年はやってるはずだった。『夕凪の街 桜の国』(07佐々部清監督)の映画タイトルを出すまでもなく、広島の夏は凪続きで太陽が焦がすように射していた。汗まみれになった体にビールを入れて涼をとる。九歳下の二代目主人が親子丼を作りながら、「うちの裏に旅館があったの憶えとって?」と聞かれ「そういやぁ、あったね、今ホテルになっとる」と俺。「旅館から借りて服部さんが住んどったんよ、共政会初代会長の」「へぇ、そう。わしゃぁもう東京行っとったけえね」広島ヤクザが大同団結して〈仁義なき戦い〉の終結だった。そこへ八十代半ばの先代が買い物から帰って来て、一軒一軒細かい話になった。「踏切り越えた東蟹屋町に、桝本いう雑貨屋があったの憶えとらんですか? 江田島上がりの少将で敗戦迎えた怖い母の兄が住んどったんですよ。斜め前が三宅八百屋じゃった」「オバマ大統領になって、やっと一生さんも被爆者じゃったんアメリカで告白しおったね」「反対の路地に木本金屑店があって、銅持ってったら高う買うてもらってたよね。映画代と貸本代じゃ」俺は店を出て踏切りを渡り、三宅八百屋や木本金屑店や伯父伯母の住まいだった前を通りすぎ、やや北(駅裏)に歩くと寿映画館の記憶が蘇って来た。浮浪児や孤児がいた修道院のハス前にあった三流館で、三本立て三十円だったはずだ。小学五、六年から通っていたので、モギリのおばちゃんに入れてもらったりしていた。トイレに行くと恐喝が待っていた。ナイフを突きつけられ「映画館に来るぐれい金持っとるんなら出せ」と言われて「こげえな臭いとこよう我慢しとるの」と相手せずに小中高計一〇〇回程をすり抜けた。一円も払ってないのは秘かな自慢だ。中学三年になって出来た隣りの若草デパートは、今でいうでかめのコンビニだが、不良の溜まり場になっていた。パン屋の田中君の友達が「わしゃ高校にゃ行かん、ヤクザになるんじゃ!」とわめき、ブリキのバッジじゃ役に立たん、土産にするんじゃと言って小指を落とした。尾長小学校には妹を背負って登校していた生徒がいた。隣の精神病院の天本病院から患者が集団脱走した時は大事件になった。反対隣の二葉中学に入ると、昼食時間になるとソーッとといなくなる同級生がいたし、泥鰌を捕って暮らしていたどぶ川沿いの小さなバラックに住んでいた黒金○○子は近づくと臭かった。町田○○子の姉ちゃんはパンパンの顔がばれていて、皆ひどいいじめにあっていた。裏には泥濘の畑が広大に広がっていてそこは元練兵場だった。今や面影も無く市民の住宅地が密集している。ふと民家の庭に炎天下のもと夾竹桃が赤く咲いていた。夾竹桃は俺にとって広島の夏を走馬灯のように思い起こさせる記憶の中に棲んでいる花だ。白やピンクはよく見掛けるが赤でないとだめだ。見掛けると感嘆するが、感嘆の花というより悪しき過去を引きずり出す花だ。
 マッカーサーの占領下の日本の広島に育って、ひとつひとつの戦後現象が、敗戦国であると同時に被爆都市であると言う紛れも無い事実から逃れようも無いことを戦後六十五も経った今も実感する。今年も八月六日の平和記念式典で、秋葉忠利広島市長は高らかに世界に向けて平和宣言をした。「核の傘」からの離脱も訴えた。それ自体良いに決まっている。それに対して「核抑止力は必要」と答えた首相の菅直人は広島に行く資格は無い。そうした思考の起点となった軍国明治政府は第五師団を置き広島の不幸を作った。日清戦争(明治二四年)時は大本営を東京から広島に移したほどだった。宇品港(広島港)は軍需物資と兵士を多量に大陸に送る日本最大の兵站基地となったが、第二次大戦時は更に重要度を増して、原爆投下都市断トツ第一候補になったことを知っておく必要がある。平和平和と連呼するのは脳天気な呆気にすぎない。
 六〇年にポール・アンカとともに歌で日本を洗脳していたニール・セダカが来日、映画はプレスリーが除隊し『G・I・ブルース』で復活して大人気だったが、映画はアメリカなら『十二人の怒れる男』(57シドニー・ルメット監督)や『悲しみよこんにちは』(57オットー・プレミンジャー監督)だった。好きだったのは伊の『刑事』(59ピエトロ・ジェルミ監督)や仏の『黒いオルフェ』(59マルセル・カミュ監督)が人生や想像力をかき立てたが、木下恵介監督の『楢山節考』(58松竹)にはかなわなかった。マッカーサーの3S政策(スポーツ、スクリーン、セックス)に日本はまんまと嵌っていたように見えた。勿論3Sなんて当時知る由もなかったが、決定的だったのが、日本テレビが六一年に始めた「シャボン玉ホリデー」という音楽番組だった。ハナ肇とクレイジーキャッツ、ザ・ピーナッツがレギュラーで、ロカビリーやツイストを猿真似で歌っていた。俺の家はテレビが無かったが、月曜の朝教室で「シャボン玉〜」の番組をキャーキャー言ってる同級生を哀れんだ。。アシベ他東京のジャズ喫茶(アメリカの流行歌をジャズと言わせていた)で、黄色い声と色いろの紙テープが、興奮して濡れたパンティと共にステージに舞う光景を馬鹿にした。
 ファンキー・ジャズの威力は凄く、且つ高踏的だった。俺を反米にした。半年で体質が変わった。物怖じは元々する方ではなかったが、諦観的で厭世的だったのが能動的に変わった。中学二年頃から考えていた忌むべき悪しき町広島脱出計画は大学受験まで待って実行することにした。駄目な父と離れない母親が哀れだったからだ。ジャズのお陰で成績はがた落ちても、六四年、大学受験の年はやって来た。〈ジャズは自己を規定する。ならばジャズは自己史そのものだ。〉と自分に言い聞かせ、六年生の時パンパンの姉ちゃんと約束した駅前闇市で筆おろしをして、オリンピック大改造中の東京へ、『黒い太陽』(64蔵原惟繕監督)の歌舞伎町に向かった。ルロイ・ジョーンズやラングストン・ヒューズが格好良かった。〈ジャズはアメリカのものではない、非アメリカ人によってアメリカで創られたものである。〉これが反広島、反米の若者の認識だった。