Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












占領下の疎開地から広島に拉致されて
[季刊・映画芸術432号より]

VOL.7
 七月二日の新聞の朝刊に曰く。「東京都大田区を流れる呑川(のみかわ)で、北米産の大型肉食魚アリゲーターガーが目撃されている。ワニの様な顔をし、体長一メートル余だが、成長が早く三メートルになることもある。コイやフナなど在来種への影響も懸念される」と。
 去年の秋にNHKで放送されたドラマ『白州次郎』は、敗戦後の数と等しく年を取った俺にとって、格好の追認のドラマだった。敗戦の年の十二月、歴史に誤解されたと自らを嘆いて、近衛文麿元首相が「落日のように厳かに、落下のように美しく」死んで、浜田真理子が歌う映画『越境者』(伊・50)の主題歌「しゃれこうべと大砲」がしめやかに流れて二部が終わった。三部は年が明けた一九四六年、国務大臣の松本烝治博士を委員長にした「憲法問題調査委員会」の憲法改正草案作りで始まり、「国家の主権において行う戦争の放棄」が謳われた。そして五一年は講和条約の年だった。吉田茂首相の側近として、内閣府とGHQの顔になっていた白州次郎は、同行した条約締結の地サンフランシスコで、官僚が書いた首相の講話の演説文に激昂する。感謝感激媚びへつらいが、しかも日本語でなく英語で書いてあったからだ。「日本語に書き直せ! これは講話の演説なんだぞ! 腐った植民地根性を捨てろ!」と言って、巻き紙を持って来させる。ケンブリッジ大に学んでひるまず持論を押し通す良血の白州次郎がかっこ良かった。暫くして講和条約はソ連他の反対に遭いながらも結ばれた。六年と八ヶ月に及ぶ占領という屈辱の時代は終わりを告げたと、白州次郎は涙を流し、白州正子は「本当の敗戦を味わうのは、むしろこれからではないかと思います」と記した。事実、講和条約と同時に締結されたのが日米安保条約だった。俺六歳。栃木県安蘇郡田沼町の疎開児童だった。
 渡良瀬川に合流する秋山川と唐沢山あとは畑の疎開先の記憶を言えば、家の前の畑に植えていた、茄子、胡瓜、とまと、大根、じゃがいもなど台所の野菜を面白がっては日々採っていたが、家の中の茶箪笥の棚にはマイセンや逆輸入のノリタケの陶器の茶碗や皿やエッグスタンドや動物の置物が並んで、角々が真鍮板で縁飾りの施された一メートル四方の革製のトランク二個の中にはランプシェード、シルクのナプキンやランチョンマット、銀のナイフ、フォーク、スプーンがびっしり詰まっていた。居間にはアメリカ製の金時計が構えて、廊下の端じっこにはアメリカ製のメーカー、シルバーの電気ミシンがあり、台所にはゼネラルモータースの電気冷蔵庫があった。畑の中にぽつんと建っている田舎家にはひどく奇妙で、庭の井戸の汲み上げポンプが我が家の水で、風呂へはいちいちバケツで運んでいた。東武線の二駅東京寄りの佐野の映画館へ父によく連れて行かれた。『銀座カンカン娘』(49島耕二)や『青い山脈』(49今井正)もそうだが、美空ひばりの印象は幼心に強かった。『リンゴ園の少女』(52島耕二)や『悲しき口笛』(49家城巳代治)、そして『東京キッド』(50斉藤寅次郎)だった。少女の美空ひばりはアメリカ帰りで、“右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム”とハンチングを冠って少女はませていた。丁度その頃だった。朝鮮半島で起こった戦争のせいで田舎にも米軍が演習で来るようになった。当然俺たち子供はジープや戦車を追いかける。そして映画のせいか年長に倣ってか“ギブミー・チョコレート”“ギブミー・チューインガム”と言って、父に連れられて行ったことがあった鬼畜米英をやっつけた勇壮な中島飛行機のこと等すっかり忘れて、兵隊が放ってくれたものを拾った。子供の身体で自ら覚えた刷り込みだった。
 父は月に二、三回は東京に出掛けていて、気まぐれに俺は連れて行かれたのだった。無職のくせに何をしに出掛けていたのか今でも知らない。或る日、横浜港に停泊していた氷川丸に連れて行かれたが、父は横浜の弟に俺を預けて何処かへ消えた。叔父の隣家の機関長が同じ年端の息子と一緒に連れ出してくれたのだ。このことは内陸の疎開小僧にとって、非常に大きな事件だった。広い海に浮かぶ巨大な船のタラップを何段も上がる。そこは外国だった。部屋という部屋、ラウンジは生まれて初めて見るきらびやかなディズニー世界だった。今年四月に、横浜の山下公園前に係留している氷川丸が竣工八十周年を迎えたと、新聞が特集を組んでいた。三〇年、最先端技術を盛り込んだ豪華客船はシアトル航路に就航し、チャップリン等世界の著名人を乗せたが、戦時中は海軍の赤十字特設病院船となり、戦後引き揚げ船で活躍した後、貨客船として復活した。幼かりし頃の氷川丸が、引き揚げ船だったか客船だったかそれは分らない。数年後知ったことだが、氷川丸のシアトル航路のパルプで一山当てた後、蒲田にセロハン工場と西洋館を建てた父は、隣の蒲田松竹の俳優のパトロンになるほど有頂天だったらしい。だがやがて敗戦色濃く空襲の危機を迎えると、工場と屋敷を捨てて疎開せざるをえなかった。竹の子生活の始まりだった。
 人生の落伍者となった父はすべてが消えた東京へ戻るよりも、故郷の広島で再起を願い帰って行った。そして尋常小学校一年生の俺は被爆都市広島の少年になれなかった。広島の地域社会は特殊構造をしていて、朝鮮部落、未解放部落、被爆者部落と互いを相容れない三つの部落があって、一般社会人も巻き込んだ日々の争いは、酷い時は殺人事件にまでなっていた。竹の子生活も広島で一、二年はどうにか保っていたが、四年生頃になると家計はじり貧以下になっていた。ゼネラルモータースの冷蔵庫はとっくに無かったが、電気ミシンはあった。着るものは買うより繕っていたからだ。父は再起の気があるのか勤めに出ることはプライドがあるのかまずしない。酒ばっかり飲んで逃げていた。俺は米が無くなると母と着物を公設質屋に売りに行った。裕福だった(竹の子の皮が豊富だった)疎開時代との落差は何なのだ! そんな家にいられたもんじゃない。いっそどっちかの部落人になりたいと少年心は歪んでいた。更に精神を追いつめたのは市街地から七十メートルほどの比治山の山頂にあった米国国防総省(ペンタゴン)の機関ABCC(原爆障害調査委員会)の存在だった。被爆者を調査して効果と条件をデータ化して次の原水爆実験のための資料研究していた。ABCCの白い車が校庭にズカズカやって来て、殆どが被爆者手帳を持っている同期生を一日二人、三人教室から連れ出し拉致して行った。拉致される理由のない俺は、新聞配達や金屑拾いで稼いだ金で映画館に潜り込んだ。狙いは映画館よりも映画館の闇だった。
 六年になった頃だった。駅前は一大闇市で昼間は市民の胃袋の欲望を受け持ち、夕闇からは大人の下半身の欲望を満たす一大赤線地帯だった。学校で唯一友だちになった田中くん家の商売は、その闇市の狭い一角でパン屋を商っていた。夕方の一時間が大事な一掃セールの時間で、俺は田中くんと“三個で二十円だよ、三個で二十円!”とやって、貰った小遣い銭で最終回の映画館に飛び込むのだった。片手に持った高木ベーカリーのパンが、今やアンデルセンだとは誰も知るめえ。映画は何でも良かった。新東宝の『明治天皇と日露大戦争』(57渡辺邦男)が白眉だったが、『女真珠王の復讐』(56志村敏夫)や『海女の戦慄』(57志村敏夫)のパンプな前田通子の眩しいヌードは未だに忘れられない。山本富士子の『夜の河』(56吉村公三郎)や三島由紀夫原作の『美徳のよろめき』(57中平康)も記憶にあるがチンプンカンプンだった。パンパンの姉ちゃんと一緒だった。何でも良いと言いながら、俺にとっては前の年に『狂った果実』(56中平康)でデビューした石原裕次郎だった。洋画のお初は『遠い太鼓』(51ラオール・ウォルシュ)だったが、時代的にはエルビス・プレスリーの『監獄ロック』(57リチャード・ソープ)が強烈だった。自家製のゲルマニウムラジオからは、FEN岩国がジーン・ビンセントやリトル・リチャード、ビル・ヘイリーを流していたが、王者は断然プレスリーで俺も日本中も嵌められていた。その一方で、NHKラジオからは毎日「尋ね人の時間」が流れていて、家族の中にはラジオに噛り付き、身を細めて聴いていた人も知っていた。
 中学に入った時、近所はケロイドの人だらけだったのに、余程意を決したらしい水軍の末裔の娘だった母が言った。「ABCCが掃除婦募集してるんよね、お金がええんじゃと」と。俺は殆どグレかかっていて、父と決別した。ファンキー・ジャズと出逢う三年前のことだった。