Flaneur, Rhum & Pop Culture
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広島でやった久世光彦「マイ・ラスト・ソング」
[季刊・映画芸術430号より]

VOL.5
 昨年暮れの十二月九日、広島市で「久世光彦『言うなかれ、君よ別れを/マイ・ラスト・ソング』」と言う一回限りのステージをプロデュースした。演出家であり作家だった故・久世光彦が、痛切な心をにじませながら選んだ数々の人生最後の曲は、国のこと、血のこと、昭和のことを考えさせるものでもあった。著書「マイ・ラスト・ソング」に残された昭和の佳曲と、その曲に想いを誘われたエッセイを、浜田真理子のピアノ弾き語りと、縁の深かった女優・小泉今日子の朗読で綴り、久世光彦の世界を再び浮かび上がらせる試みだった。
 昨年の九月十九日〜十一月二十九日に世田谷文学館企画展で行われた「久世光彦・時を呼ぶ声」に連携する形で発案した企画だったのだが、それでは何故広島でやったのかということになる。その前に一言。二〇〇六年九月、広島市中に或るホテルがオープンした。ギャラリーやコンサート会場を設けて、絵画、デザイン、テキスタイル等のアートの他、イベントも定期的にやって行く方針で、ホテルの内装外装をすべてデザインした旧知の内田繁に呼ばれて、三年数ヶ月が過ぎた。今までに坂田明、伊藤多喜雄、林英哲、高橋悠治等多くのミュージシャンを連れて行ったが、広島市出身の自分は今やとっくに東京は下北沢ッ子で、〈故郷は遠きにありて思うもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)になるとても 帰るところにあるまじや〉といった認識があるので、六十を過ぎて偶然決まった故郷の仕事はわくわくするが、広島にもヒロシマにも表敬的なところがある。そこで去年から、「川の町でミーティング」と題したお話とライブをくっ付けた企画で広島に提案をしようと思いついた。一民間ホテルの企画なのに中国新聞社と広島FMが後援についてくれて、第一回を三月に「死んだ男の残したものは」の谷川俊太郎、小室等、谷川賢作で成功したせいで、カルメン・マキから寺山修司を引っ張り出したり、「ピカドンを越えて」黒田征太郎、「現代のユリシーズ」白石かずこと過激だったり前衛だったり、十二月九日の久世光彦で五回目だった。自分で言うのもなんだが、ホテルの催し物らしからぬのが良い。
 俺は広島にちょっとこだわり、フライヤーの惹句に「昔、久世光彦は広島が生んだひとりの詩人と出会った」と書いて、そこを流れの中軸にしようと思った。〈詩人〉は大木惇夫と言い、照れながら言うが伯父である。「戦友別杯の歌」という戦時中の詩があって、偶然にも広島行きの直前に亡くなられた森繁久彌がたびたびテレビでその詩を諳んじていたのには出くわしていた。山口瞳の小説「江分利満氏の優雅な生活」で江分利満氏に、すなわち自身の分身に「戦友別杯の歌」を諳んじさせる箇所が出てくる。映画化された岡本喜八監督の『江分利満氏の優雅な生活』(63)では小林桂樹がしがないサラリーマンの戦後のやるせなさを演じて、当詩を激唱している。森繁久彌から教わった久世光彦は熱い哀しさに打たれ、以来何度となく怒りを込めてその詩をエッセイに託した。そこで久世光彦を通してこの無名の大木惇夫に触れるために、ライブ前に、作家でエッセイストの宮田毬栄に登場してもらいトークをしてもらうことにした。どうして彼女かというと、久世光彦の長年の友人であり大木惇夫の娘だったから、それ以上の人選は無かった。小泉今日子には聞き役になってもらった。
 二〇〇六年三月二日、「マイ・ラスト・ソング〜あなたは最後に何を聴きたいか」の歌探しの旅の中途で久世光彦が逝ってしまった直後、タイミング良く共演をした小泉今日子と浜田真理子は終演後、「マイ・ラスト・ソング」の話になり、久世ワールドを何とか伝えていきたいという思いがきっかけになったのだから、思いは重要である。二〇〇八年十一月、世田谷パブリックシアターの初演があって、広島で改訂再演したというのが意味あることなのだろう。
 話が終わり、ゆっくりと照明が変化して「みんな夢の中」の歌が始まってライブ・タイムに移っていった。久世光彦が選ぶ曲が浜田真理子節にアレンジされて、話すように歌うから音楽が皮膚からスーッと入ってくる。朗読も久世光彦の歌にまつわる思いが深くて核心に満ちているから、芝居を排して思いを伝える小泉今日子の説得性は尋常ではない。後半へと進行して、「海ゆかば」が始まるとクロスするように中心テーマの「言うなかれ、君よ別れを」だ。台本を引用する。

 「「言うなかれ、君よ別れを」という去年私が撮ったドラマは、終戦記念日の前の八月十二日の夜、放送された。海軍中尉は愛する人との祝言の夜、新しい家族になった一人一人の顔を見ながら、こう言って出撃していった。〈私は澄んだ気持ちで行きます。私はあの詩のように、生き死にや喜び悲しみを超えてところに、いまいるような気がします。行って参ります〉。
〈あの詩〉というのは、このドラマの家族たちが愛唱していた、大木惇夫の「戦友別杯の歌」である。「海ゆかば」とこの大木惇夫の絶唱が「言うなかれ、君よ別れを」のテーマだった。

言うなかれ、君よ、別れを、
世の常を、また生き死にを、海原のはるけき果てに、今やはた何をか言わん、熱き血を捧ぐる者の、大いなる胸を叩けよ、
満月を盃にくだきて、暫し、ただ酔いて勢(きよ)へよ、
わが往くはバタビヤの街、君はよくバンドンを突け、この夕べ相離(あいさか)るとも
かがやかし南十字を、いつの夜か、また共に見ん、
言うなかれ、君よ、別れを、
見よ、空と水うつところ、黙々と雲は行き雲はゆけるを
 
 従軍作家として南方へ派遣された大木惇夫が、昭和十七年に南支那海の輸送船上で歌った名詩である。この詩人は「戦友別杯の歌」をはじめとする戦争協力詩を書いたということで戦後弾劾され、不遇のうちに死んだ。詩集が出ていないばかりか、今どんな近代アンソロジーを探しても、この人の詩は一編も載っていない。無念である。この詩のどこに、邪な曇りが見えるだろう。血を流して争わなければならない哀しみは滲んでいても、どこに戦意昂揚の語句があるというのだろう。この詩を口ずさみながら戦場に行った学徒たちが、たくさんいたことを私は知っている。しかし、この詩を愛した彼らは、眉を吊り上げ目を血走らせていったのではない。あの幻のような時代から半世紀経って、いま私は思う。「戦友別杯の歌」は、彼らにとって荒ぶる戦の歌ではなく、人として生まれ、短かった日々を人として生きた彼らの、自らへの鎮魂の歌であり、優しかったものたちへの永訣の歌だったのである――。」
(久世光彦著「みんな夢の中」文春文庫より)

 宮田毬栄と小泉今日子の話が相当効いていたのか、この語りが終わった後、会場の空気は張り詰めていた。ラスト・ソング「港が見える丘」で出演者も客席も多少綻んで終演したが、その夜は打ち上げ後も、俺は色んな記憶が鮮明に蘇って来ていた。
 二〇〇四年は年始から下北沢の映画館シネマアートン下北沢を稼働させていた年だった。俺は十一月六日から一ヶ月、松田優作レイト特集を組んだ。『それから』(85森田芳光監督)他の劇映画に混じって、久世ドラマの「春が来た」(82向田邦子原作)を劇場上映しようと思い、カノックスから許可と映像素材を入手した。松田優作にすれば、夏目漱石原作の「虞美人草」を向田邦子脚本でやると決まっていたが、前年大韓航空機事故で失い、傷心の中で企画された物語付きの作品でもあった。DVに落とすと同時に久世光彦にトーク・ゲストで出ていただきたくてお願いしたが断られた。どうしてもと思い直し今度はまず筒井ともみを口説いて、彼女と対談をと持ちかけるとOKをくれたのだった。斯くて十一月十三日、五十名の極小映画館に久世光彦とテレビドラマがやって来て、秋だというのに小さな春が来たのだった。いずれにしても、下北沢のこの一件が無かったなら、広島は無かったんじゃないかとそう思っているのだ。