Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












〈シモキタ・モナムール〉と言いたいところだが
[季刊・映画芸術426号より]

VOL.1
 〇四年の年明けは、下北沢の映画館「シネマ下北沢」から「シネマアートン下北沢」への引き継ぎに追われていたが、そんな一月二七日、下北沢のやや古株の身として小田急線複々線工事を、多数派だった高架化を少数派の地下化が最終的に覆したことに溜飲を下げていたが、新規道路計画や駅前のバスロータリー計画やらが立ち上がり、きな臭い話を仄聞していた。そこで世田谷区の当該課が聞いた区画開発の説明会に北沢タウンホールに出掛けた。壇上の区側と客席の住民側は既に相容れないところまで利害は対立していて、引き継いだばかりの「シネマアートン」が補助五四号線という環七幅の新規道路計画に入っていることを知った。実は予め知っていたからどんな説明をするのか聞きに行ったのだが、その計画たるや国と都と区の三位一体の土建行政の、住民の意見をまったく封殺した根拠無き再発計画だった。その都市計画がマッカーサー統治時代の一九四六年製というから、笑いを堪えつつ米帝の奴隷国に成り下がっている日本の現在形が漫画のように炙り出されてきた。〇五年、五一〇店舗の賛同店を得て立ち上げた下北沢商業者協議会は、去年〇八年の八月二九、三〇、三一の三日間、前年に続いて「シモキタ・ヴォイス08」というシンポジウムと音楽によるイヴェントを終えて、俺はボロ雑巾のように九月を迎えた。このくたくた加減に拍車を掛けたのが、〇四年に同時にスタートした「シネマアートン」の閉館騒動の事後対策だった。「シネマアートン」は常に街と共に、別の言い方をすれば新規道路建設や地区計画の〈開発〉を反映して動いてきた映画館だった。
 『四畳半革命』(監督世志男)を六月一四日、一五日のみ上映し、残りの契約期日はシネボカンとトリウッドに代行してもらった後は『ラストショー』(71・監督ピーター・ボグダノヴィッチ)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(89・監督ジュゼッペ・トルナトーレ)や『魂萌え!』(07・監督阪本順治)の映像シーンが交錯しつつフラッシュバックして消えた。そして映画館の灯も消えた。数日後、元アートン出版社長の郭充良と元支配人の岩本光弘と会い、機能を停止したアートンはいち早く契約解除して撤退すべしと進言した。製作配給会社、映像制作会社、イヴェンター、専門学校の新オーナー候補が数社名乗りを上げ、俺たちは下北沢との信頼性を判断した。その間、アートンの再建投資ファンド会社は七月の家賃の支払いを履行せず、〇八年末までの契約更新の権利を自ら破棄してテナントの立場を失効した。アートンのメインバンクが家主の本多企画に預託しておいた保証金を差し押さえていて、社長の本多一夫の怒りと不快を買っていたが、俺は頻繁に電話なり会うなり問答を繰り返し、下北沢から映画館が無くなる愚を訴えながら、「シモキタ・ヴォイス」の準備作業と共に、蝿も落とさん炎暑の下を右往左往這い蹲った。八月に入って「映画館はやらない」と決めた本多一夫の意志を前にして遂に退くことに決めた。備品機械の撤去をどうするかに切り替えて「シネマ下北沢」時代から館内の壁を飾っていた二尺×六尺の漫画絵パネルを二枚、岩本元支配人と取りはずした。解体を待つ映写室で35ミリ映写機が震えていた。と、去年の二月号で中止になった連載が、再び連載になった今回までの一年の内に起った映画館消滅の件りに触れた。
 さて、下北沢の「レディ・ジェーン」に纏わることなら読者もとっつき易く、改めてどうでしょうかと、新編集者の誘いがあって連載を受けてはみたが、下北沢でジャズの店を仕方なく開けて、仕方なく三四年も続けているのは、下北沢の前に新宿時代の、俺にとってのジャズエイジがあったからで、新宿ッ子になる前には、小、中、高校生を過ごした広島があったからだ。時間を四・五〇年巻き戻してからリスタートしたいと思った。
 五〇周年記念に湧いたばかりの東京タワーが建った昭和三三年から三年経った十五歳の春、クラリネットを持った同級生が側に寄って来て、「俺将来楽士になるんじゃ、こんなあ、ジャズ知っとるか?」と言った。大田川の支流の基町河畔には大被爆者部落が息を潜めて暮していて、広島駅前の大闇市は夕方ともなれば一大赤線地帯と化した。ヤクザがはびこる訳だ。中学の同期生が何人も卒業を待たずに予備軍に入っていった。ブリキでバッヂを作って〈緑会〉やら〈黒龍会〉と称して小指を詰めて粋がっていた。〈岩戸景気〉も無縁で〈三丁目の夕日〉も無く、繁華街では平気で打越組と山村組の銃撃戦が起こっていた。大森君に連れて行かれたとこは、そのド真ン中の映画館宝塚劇場のビルの裏の一角にあった。夕方六時、ジャズ・バー「PAD」のドアを開けると、七・八人掛けのカウンターだけの酒場だった。いや、造りよりいきなり耳を襲ったキャノンボール・アダレイの『サムシング・エルス』の轟音に身を竦めた。大森君はニヤついた。何回か大森君に連れて行ってもらってからは一人で通うようになった。中学では非被爆者の被差別から脱却していたが、何か強いものを確信したかった。学業的には転落の始まりだったが、自己変革の方が大事で何よりジャズは力強かった。後年知ったことだが、ジャズの語源には虎の威を借りる狐や空威張り、はったりの意があるのだが、その威力は年足らずのガキには相当だった。それに殆んど誰もジャズを知らないという特権意識もあった。高校二年の頃、音楽の授業に行くと新任の先生がいて、「PAD」のカウンターでジャズ論争をやり合う(?)先輩客ではなかったか! それが知れたら即停学に決まっていたが、ジャズ特権階級の有馬先生はそんな野暮はしなかった。
 東京オリンピックの昭和三九年の春、冤罪事件で反権力を貫いた「八海事件」の正木ひろし弁護士の著「裁判官 人の命は権力で奪えるものか」のたった一冊を読んで、法学士になるんだと東京にやってきた。この本を原作にした映画が五六年『真昼の暗黒』(監督今井正)の題名で製作され、キネマ旬報日本映画監督賞、ベストテン第一位他賞を総ナメした。ところが俺は、再開発で大手術中の全都のノイズと、学内外で教条的にがなり立てるラウドスピーカーのせいにして、法律書を早くも捨てた。替って新宿歌舞伎町のあまたあるジャズ・バーとゴールデン街が、或いは映画館が学校になっていった。
 昭和四〇、四一年だった。新宿のどの映画館か忘れてしまったが、アラン・レネの『二十四時間の情事』(59)を観た。マルグリット・デュラスの原作、ジョルジュ・ドルリューの音楽で原作を「ヒロシマ・モナムール」という。ヒロシマにロケでやってきた女優が、日本人の建築家と二十四時間だけの情事を重ねる。会話でなくて二人のモノローグが重く流れて、俺の馴染んだ本通りの書店積善館や流川通りのキャバレー・リッツ、平和公園の新広島ホテルが出て来るが今はもう無い。河畔のコルビシェ風のカフェの名は「どーむ」といった。
 下北ッ子になり始めた頃、俺の所属していた劇団の男たちが、下北沢の或るバーのバーテンダーを交替で務めていた。六九年の或る日、俺の番が来てバーテンダーをやった。その店の屋号を「どーむ」といった。全く偶然だが広島出身のオーナーで、吉田喜重監督の現代映画社の助監督をしていた。足繁く通う吉田監督からは俳優の仕事を何本かもらった。
 そして四〇年後の昨年末、主演女優だったエマニュエル・リヴァが広島で撮った写真が発見されて、港千尋と日仏会館の招聘で広島と東京で写真展及び〈記憶と忘却〉のトークが行われた。東京日仏学院では、吉田喜重演出によるエマニュエルと岡田茉莉子の朗読も行われたというのだ。今下北沢は再開発に揺れ動いているが、こんな個人史的符合の只中にあって、俺は俺として下北沢に背を向けられる訳がない。
 映画で語られた〈記憶と忘却〉のセリフを一篇言うなら「君はヒロシマで何も見ていない」男が女に言った。