Flaneur, Rhum & Pop Culture
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「セントジェームス病院」の弔鐘はまだ
[季刊・映画芸術にて連載中]


VOL.27

「時には母のない子のように2007」というカルメン・マキの新譜CDがあって、それに関連したクリスマス・ライブが昨年末の下北沢の教会であった。タイトル曲を一曲目に歌い終えて、「封印してきた時もあったけど、この曲があって今があると思う」と言った言葉に、三十八年の歳月と彼女の年輪を感じた。そして三日後、俺は広島で林英哲のコンサートを終えて二十七日、羽田からそのまま新宿ピットインに直行した。浅川マキを聴きに行ったのだが、「ふしあわせという名の猫」「かもめ」「さかみち」と三曲も浅川マキの曲を歌ったカルメン・マキの歌が、俺の内耳でプリズムのように鳴っていた。
 ピットインは満席で立席だった。曲のイントロだと思うとMCだったり、MCだと思うと語るような歌だったり定かでなくて客を安定させなかった。共演者もインプロを多用して原曲の姿を止めない程、解体と創造のシンクロが自由度を高めていた。終って楽屋を訪ねると、共演者のトロンボーンの向井滋春とドラムのセシル・モンローに、鈴木店長と怪物こと龍野前店長がいた。浅川マキは俺に「どうだった?」と訊ねたが、「レコードやCDの世界とあまりにイメージ違ったんじゃ?」と、不意の客を諌めつつ気を遣った。俺は「相当イッテると思ってましたよ。それにしても向井滋春のチェロにはたまげたよ、参ったよ」と半ば誤魔化すと、楽屋もそれに尽きるねなどと同調したので話が終ってしまった。そうなのだ、本当に疎疎しくライブを聴いたのは二十五年〜三十年振りではなかったか。
 六八年、寺山修司作詩・演出の新宿蠍座コンサートには行った。紀伊國屋書店のチケットビューローに集まるチラシは網羅して、全都情報は常に確保していたアングラ演劇青年だった。二度目は七〇年か六九年かも知れない。大学の演劇部の後輩たちが企画した日本青年館だったか産経ホールだったか、立派なホールのジョイント・コンサートだったが、楽歴にこれが見当たらないとすれば触れるべきではなかったか? 七一年になると新宿は街の様相を異にし始めて、つまり管理され開発される街へと変貌し始めて、その空気感に嫌悪を感じた俺は、映画と演劇とゴールデン街を除いて、五年前から親しみ始めた下北沢へシフト・チェンジしていた。下北沢駅前の「どーむ」というバーは常連になっていた。常連が昂じてバイトが不可欠だった演劇青年はカウンターの中に入るのだが、吉田喜重監督のチーフ岡村精が経営するその店は映画演劇人の溜り場だった。そこに同じ常連の彫刻家がいた。彫刻家と会う度に浅川マキの話になった。或る夜、近藤等則というトランペッターが良いんだと言った。「何処かで名前は聞いた」と俺が言うと、店の棚にも飾ってあったジャコメッティみたいなメタル彫刻を創る竹田という彫刻家に、俺は近藤等則が出ている浅川マキライブに連れて行かれた。ところがそこが何処だったか憶えていない。三回目だった。文芸坐にも行ってないはずがない、記憶の穴だ。いやライブビデオで錯覚しているだけか。彼の家が多摩川だったと憶えているのにだ。
 四回目の楽屋で俺は、映画的だったと付け加えた。ピットインの下手にある楽屋の扉の内側には大鏡が張ってあって、百八十度開け放たれているので、ステージの浅川マキと出演者が、照明の反射角に写し出されるのだ。楽屋の灯りはブルーにセットされて、そうした悪戯叉はインプロを含めた流れがシネマトグラフだったのだ。勿論デジャブが手伝った。だって彼女は去年の夏の夜の電話で言った。「最近のステージは総てがインプロヴィゼーションなの、近藤等則とのピットインで終り方の難しさを何回も味わった」と。
 去年の電話とは、ワーナー・ジャパンから、松田優作が「レディ・ジェーン」で聴いたと確信する曲を大木が選んで、エッセイ付きでコンピレートしてくれないかという依頼に浅川マキの一曲「セントジェームス病院」を選んでリリースしたことで、叱責を受けるかと覚悟した電話だったが、姐御はやさしかった。九〇年に彼女がレコーディングのためにオランダからトリスタン・ホンシンガーを呼んだ―楽屋の浅川マキが言った。「あの時『ロマーニッシェス』だけだったはずよ、ライブしたの」「えッ、それじゃ横取りだったの!?」と俺―事情を知っていた共演者の近藤等則はトリスタンと、哀感を込めて「セントジェームス病院」を浅川マキに送った。ワーナー版に収録したのは、浅川マキのステージだった南里文雄の最後の収録曲で、アルバム「裏窓」から拝借した。電話は走馬燈のような会話の後、故柴田徹に辿り着いた。小松市出身の彼は七〇年代半ば、バンド「めんたんぴん」を作り、浅川マキと出会った。二人はパートナーとなり、男と女になり、プロデューサーと歌手の関係を終生続けたが、九六、七年には小松に戻り、詩人と音楽の組み合わせを主催するようになった。
 〇三年四月十六日、白石かずことペーター・ブロツマンと共に彼は「レディ・ジェーン」にやってきた。CD化のための音録りとプロデューサーとしてだった。詩人とサックス奏者のベルリンでの再会は、激しくみぞれの音が二人の共演に割って入った。その「ベルリン日誌」を白石かずこが詠じ、サックスが咽び吠える。“みぞれの中であんずうは踊らない。あんずうは美しい沈黙の蒲団の中で宇宙飛行する”フィンランド始め全欧の大学で舞踏を学科にまで広めたイノベーターの踊り子古川あんずは死んだ。俺たち日独共同企画を立案中でのあんずの癌による死は、企画自体を反古にする衝撃だった。そして彼女を謳った詩と音を録音している柴田徹も癌に冒されていた。帰ることの許されぬ何百年を生かされる「ユリシーズ」も「コルトレーン」も、彼の手によってCD内に介錯された。
 浅川マキの電話は続いていた。〇六年暮れの恒例五日間連続ライブに、柴田徹は三十数年前の顔に戻ってPAをやり通したのだと。丸山ワクチンの効用か。だが翌〇七年一月から五月までのホスピス生活が最後だった。電話を切って三ヶ月半後、柴田徹と浅川マキが創ったCD化集「浅川マキ/ダークネスIV」が送られてきた。それは六八年に始まって四十年に亘る作業の終章だった。
 柴田徹が小松市なら、やはり金沢に近い日本海の河口の町で生まれ育ったという浅川マキが、自書「こんな風に過ぎて行くのなら」で、町にあった唯一の映画館で観た映画を語っている。まるで、清水邦夫の詩情溢れる名戯曲を蜷川幸雄が演出した「タンゴ冬の終りに」という芝居のようだ。日本海の古びた映画館に流れて来た元有名俳優の男女が、かつての役柄の狂気の中に斃れゆく物語だ。幕が開くと観客席に想定したスクリーンに向って、舞台上の客席にいる九十名の客役が熱く興奮しているシーンは圧巻だった。因に映画は『イージーライダー』(69)だった。俺が『イージーライダー』を観たのは新宿だったが、浅川マキは日比谷のスバル座だったという。『愛の狩人』(70)も『スケアクロウ』(73)も。おお、スバル座! ああ、スバル街! 日比谷のスバル街には六五年頃からよく通った。「ママ」という私語厳禁のジャズ喫茶があったのだ。ファンキー・ジャズの名盤「クール・ストラッティン」はそこで焼きつけた。焼きつけたのは音だけではない。スリットの入ったタイトスカートとハイヒールで気取って歩く女性のジャケットをだ。
「ブルーノート1588」そのジャケットをまず写真家に撮らせた。デザイナーにその写真をトリミングしてもらいタイトルを消した。屋号を入れてマッチを創ってもぐり酒場「レディ・ジェーン」を七五年に開いた。今年三十四年目を稼働中だが、向うべき〈終章〉が見つからない。〈二人のマキ〉のドキュメンタリーを作るという大胆な発案はある。と言っただけで怖じけずく終章が見える。三十四年目もまずは、マルチニック・ラムから始めるとしよう。