Flaneur, Rhum & Pop Culture
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ストーンズに追悼された『むなしき愛』
[季刊・映画芸術にて連載中]


VOL.22

 今年の三月にローリング・ストーンズが来日した。三年ぶりという程の恒例の来日公演だったが、ゴールデンサークル席五万五千円も目玉が飛び出る最高価格だし、メンバー四人の平均年齢六十一・五歳も東京ドームのスタジアム興行としては最高齢だった。バンド寿命が圧倒的に世界最長であることには敬意を払うが、悪童を売りにするバンドの入場料がオペラ並みなのは鼻白むところがある。だがここで引っ掛かっていては話が進まない。去る昔一九七三年一月、ストーンズの初来日公演が発表された。世間は騒ぎ、俺自身も狂喜した。しかし、ミック・ジャガーの麻薬不法所持有罪判決が原因で中止された。この中止の事実からヒントを得て、プルトニウム爆弾を盗んだ教師(沢田研二)に行動を選択させたのが映画『太陽を盗んだ男』(79/監督長谷川和彦)だ。中止になってもその年俺の書いた芝居は“第一章テル・ミー”“第二章ジャンピング・ジャック・フラッシュ”と十場まで総てストーンズ曲を付ける位入れ込んだ。だから十七年も経った九〇年にやっと実現した初来日公演には、おっさんになっていたが俺の二十代を虜にしたバンドに謝意を払って駆けつけると、おっさん、おばはんの山だった。

 個人的に音楽の趣向を述べると、広島でハリー・ベラフォンテ以外ずっとバップ・ジャズに浸り込んでいたはずが(聞こえてきた音楽は大量にある)、六四年に東京に出てきて以後、ロックやフォークにも目がいき始めた。演劇をかじり始めて社会性なるものに向っていったからなのか。ジャズは俺にとって正しかったが、時代や状況に対してのインパクトはロックの方が圧倒的だった訳だし、ジャズは即効性の無いインナー気味のところがあった。そんな子供なりの認識があったにも関わらず、六四年にアメリカを席巻したビートルズが、勢いに乗って六六年に日本にやって来た時程、世間の大騒ぎをよそに白けたことはなかった。

 五五年映画『暴力教室』(監督リチャート・ブルックス)が、生徒(ビグ・モロー)が先生(グレン・フォード)を暴行するなどセンセーショナルなシーンもあって大ヒットしたが、映画の勢いを借りて主題歌も大ヒットした。一躍脚光を浴びたのがビル・ヘイリー&ザ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だった。ロックンロールの誕生だ。翌五六年ビル・ヘイリーの下地があって、テレビの普及と高くて割れやすいSP盤から安価なドーナツ盤へ切り替った時期に、アイドルとして登場したのがエルビス・プレスリーだった。プレスリー人気は磐石で、その周辺には、「ペギー・スー」のバディ・ホリーや「ビーバップ・ルーラ」のジーン・ヴィンセント等がいたが、いずれも黒人が発見したリズム&ブルースの模倣だった。黒人バンドも出現した。「オー・ボー・ディトリー」のボー・ディトリーや「ルシール」のリトル・リチャーズは、絶叫タイプで五〇年代のカリスマになった。ところがバディやエディ・コクランが事故死して、プレスリーも徴兵されるや一気に衰退していった。黒人も元々チャック・ベリーはポップスを避けていたし、リトル・リチャーズは宗教に傾斜していった。軟弱音楽に陥ったアメリカに変って反抗心旺盛に立ち上がったのが、ブリティッシュ・ロックンロールだった。つまりビートルズだった。ジャズはブルースから枝別れして、ブルースはこうして音楽植民地の歴史の流れの中でポップスに変容してしまったのだ。そう、世の中総てがビートルズ狂いをしようとも、皆と同じものを聴こうとは思わない歪んだ性格もあるが、ポップスを聴く気はなかった。

 そんな同時期、ブルースやリズム&ブルースの黒っぽいニュアンスを強調した、ワイルドなロックンロール・バンドの登場がローリング・ストーンズだった。ビートルズが自作の「プリーズ・プリーズ・ミー」で六三年にデビューすると、ストーンズは同年、尊敬するチャック・ベリーの曲「カム・オン」をカバーして登場した。黒人音楽へ憧憬を込めてカバーを作り続けた。六六年ビートルズが「イエロー(・サブマリン)」と言えば、「(ペイント・イット・)ブラック」と言い、「(レット・イット・)ビー」と言えば、「(レット・イット・)ブリード」と対抗したのも時代精神を感じた。又六九年のストーンズのドキュメンタリー映画『ギミー・シェルター』(監督デヴィット&アルバート・メイズルス)は衝撃的だった。アメリカ・オルタモントの野外コンサートを記録しているのだが、「悪魔を憐れむ歌」を歌っているミック・ジャガーの前で事件は起った。警備をしていたヘルス・エンジェルスに一人の黒人少年が刺し殺されたのだ。「いつもこの曲を歌おうとすると何かが起きる」とミックは呟き、同シーンがスローモーションで三度映し出されている。

 同じ六九年、ストーンズ周辺を揺るがした怪死大事件が起きた。それはストーンズを組織したリーダーであり、天才ミュージシャンだったブライアン・ジョーンズのプールでの不可解な死だった。享年二十七。その死の謎に迫ると共に、六〇年代の時代の感情を再現した映画が今夏封切られた。『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』(監督スティーブン・ウーリー)だ。核心的な音楽性、黒人音楽への尊敬、両性具有的な奇抜なファッション、酒と麻薬と女の日々ー偶発的な溺死とBBCは放送したし世間の大方がそう見ていたが、俺にはとても奇異だった。長年かかって殺人説を唱えたテリー・ロウリングスの著には、「熊のプーサン」の著者A・A・ミルンが住んでいたロンドン郊外の大邸宅を買い取ったブライアンの監視世話係として、ストーンズに雇われた建築業者のフランク・ソログッドが、九三年に死の床で「自分がブライアンを殺した」と、ロード・マネージャーだったトム・キーロックに宛てた告白文が掲載されている。ウーリーはこの書によって真相を映画化しようと思ったという。

 弱冠二十歳でローリング・ストーンズ(ブルースのキング、マディ・ウォーターズのアルバム・タイトルからブライアンが命名)を発足させた彼は、早熟の天才ぶりを好奇心の赴くままに発揮させた。しかし、「俺たちはビートルズ(ポップス)になる気はない」と宣言して、ブルースを追求するスタンスは変えなかった。六二年の結成時にはイギリスで初めてスライド・ギターをマスターした男と言われた。ハウリン・ウルフをカバーした「リトル・レッド・ルースター」でそれを聴ける。「ペイント・イット・ブラック」ではシタールをこなし、ハーモニカでヤードバーズに参加し、サックスとパーカッションでビートルズに参加している。あらゆる楽器を弾きこなしてしまうブライアンが、ダルシマーをフィーチャーしている曲が六六年の「レディ・ジェーン」という極め付けの美しいバラードだ。の由来は、英国十六世紀の絶対君主ヘンリー八世が、三人目の妻となるジェーン・シーモアに宛てた恋文が土台になっていて、結果二人目の妻アン・ブリンを斬首する予言になっている。だから我が下北沢「レディ・ジェーン」とは、女体で王妃の座を奪い取ったという意味に於て、D・H・ロレンス曰くヴァギナの隠語でもある。

 ブライアンが参加した最後のアルバム「レット・イット・ブリード」(69)に収録された「むなしき愛」は、ブルースの最高峰ロバート・ジョンソンの曲で、最後まで宗旨をまっとうして、離れた後のストーンズをも、ポップスだと突き放した。故に何十年の間、「ミックとキースが、ブライアンがジョン・レノンやジミ・ヘンドリックスと共演する噂を聞いて、彼の成功を恐れて殺した」という陰謀説もあったのだが、ここに映画は真実の光を当てた。それにしても映画内で何と小さく見えたミックとキースか。否待て、真実の映画化をよくぞ許したと思えば、彼ら二人は大物か。