Flaneur, Rhum & Pop Culture
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『夜のプラットホーム』のインフラ作戦
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.16

 「愛・地球博」「自然の叡智」「地球賛歌」の言葉が耳障りなこの頃、世界は映画や音楽を欲しがっているのだろうかと常々考える。地球はありとあらゆるもので覆われていて、その底部で悲鳴を上げている映画や音楽の更に底で、軽んじられ不用物にされた思想、倫理、主体性、対他性、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして心と命が腐乱している。ひたすら〈自由〉と〈豊かさ〉を求めて勝ち組を生きるアメリカ型社会が〈正義〉と言わんばかりのようだ。
 「週刊文春」連載のエッセイで小林信彦が、ラジオ番組に電話してきたリスナーの高校生に、「少年犯罪は年々減っているのだよ」とスタジオの評論家が反論したら、「『犯罪の数は減っていても、質が違うと思います。ぼくのまわりを見ていても〈希望〉が持てない雰囲気があるんです』うまいことを言う! ぼくはひざを叩いた」と言って、一九四五年八月十五日の〈敗戦〉が〈希望〉に転じた理由を書いていた。つまり、「中学校で教えられたのは、日本はもう武器を持ったりすることは二度とないのだから、〈文化〉の方向に進むしかない。日本は〈文化国家〉になるのだ!」と言って、「心に残るのは、昭和二十三年三月創刊のアテネ文庫である」と挙げていた。
 今年〇五年は敗戦六十年だ。四五年生まれの六十歳で、疎開先で生まれたので広島の被爆をまぬがれた俺は、両親の故郷広島に七年後連れて行かれた。そして原爆都市で青少年時代、戦後民主主義と平和主義を教育されたのだったが、その複雑な体験は未だに心身に残っている。被爆してない広島の少年故に受けた逆差別のことだがここでは置く。六十年は還暦だ。易の教えで暦が還れば、ふかし芋、すいとん、大豆、闇米、カストリ、ヒロポン、エログロ誌の敗戦で出直して、その〈希望〉に繋げてみるか。
 『夜のプラットホーム』(48/田口哲監督)という映画があった。カメラアイでいうと、高架を走る電車が駅(多分新橋)に近づく。駅前を俯瞰すると、傷病兵、靴磨き、団塊を孕む妊婦、南京袋を担いだ女、浮浪児の群れ、駆けつけたトラックから一斉に飛び降りる警官と逃げまどう闇屋たち――渡辺公夫のカメラが、ドキュメンタリーで風俗を捉えていく長い導入部が印象的だ。日本復興の希望が見える。戦地で夫をなくした子持ちの女給(木暮実千代)が、戦後に馴染めない復員兵(水島道太郎)の面倒を見るうち、感情が芽生えるのだが無器用に別れていく。そのカフェの演奏シーンに何度か出てくるのが主題歌の「夜のプラットホーム」だ。ゆったりしたコンチネンタル・タンゴのリズムが同時代的だ。歌の二葉あき子は広島駅裏の二葉の里の出身で、因に俺の中学は二葉中学という。あき子は勿論、安芸の国広島だ。五二年広島に行く時、東京駅から乗った急行が安芸号だった。硬席で十七時間掛かった。その時からあの日東京駅のホームで鳴っていたのが「夜のプラットホーム」(安芸号は東京駅発二〇時だった)だと頑なに思いこんでいる。
 成瀬巳喜男の絶品『浮雲』(55)は、四六年インドシナ(ヴェトナム)から復員してきた身を持ち崩した女(高峰秀子)と、その場しのぎの実の無い官史の男(森雅之)の、だらだらと続く逢引きの場所が新宿の闇市だ。悄然とした二人がお茶を飲んでいるカフェの表から微かに流れ聞こえるのが「夜のプラットホーム」だったのを知るのは、四、五回観た後だった。ここにも復興のエネルギーの象徴闇市は必須だった。
 『わが青春に悔なし』(46)は戦後いち早く東宝第一争議の前に作った黒澤明の反戦映画で、左翼運動家と結婚したため、世間を追われ夫の実家の田に一人鍬を入れる原節子の美しい汚れ役が、圧倒的に迫ってくる。三三年に実際に起きた京大教授の強制免官の滝川事件を背景にしているので戦前の話だ。ところが、同じ四六年に同じ原節子が、敗戦直後のリアルタイムで畑に鍬を入れ汗する映画がある。『緑の故郷』(渡辺邦男監督)は、兄が捕虜になったため故郷の教壇を追われていた原節子が戦後戻ってきて、戦友を殺したことを彼の両親に報告するために、南方戦線から復員してきた一兵卒(黒川弥太郎)と会うところから始まる。
 「終戦後、初めて帰って来ました。」
 「えッ終戦? どうして敗戦と言わないのですか?」――そう、戦死は玉砕、敗走は轉進、占領軍は進駐軍と言葉が改ざんされた。轉進命令が下されると、「重傷者ハソノ場ニ於テ自決スベシ、戦友愛ヲ捨テヨ」が軍規で“生キテ虜囚ノ恥シメヲ受ケズ”。村の人口は六百四十八人、疎開者五十一人、復員三十五人、これから復員の見込み十三人、内一人捕虜。その村で汚名を着た原節子と、友を自決に追いやった血で汚れた手を、村の開墾に役立てる手に変えて、敗戦直後の第一歩を踏み出す映画に、希望と心を動かされない者はいないだろう。痛々しくも明るい未来を垣間見せる〈平和国家建設〉に向った第一歩だった。
 その努力に五〇年の朝鮮戦争特需が景気に火を付け、次いで五四〜五五年の神武景気では、三種の神器たる電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビが大流行、世は浮かれた。だが片方では、その年青函連絡船洞爺丸が台風十五号で転覆し、二百五十五人の死者を出した事件を題材に水上勉は小説を書き、のち内田吐夢が映画化したタイトルは『餽餓海峡』(65)だった。こうして映画は文化の王者として、時代の禍福或いは表裏を描いて量産されていった。
 原稿〆切の三月末、晩飯時にテレビを点けると往年の歌謡曲ベスト5を、当時の映像付きで放じていた。中途からだったのでいきなり昭和三十九年一位「愛と死を見つめて」とテロップが出て、歌手の青山和子が当時を振り返った。骨肉腫のため大阪で入院していたミコと、東京の大学生マコの三年半、三百通の手紙を材にした吉永小百合、浜田光夫主演、斎藤武市監督で映画化された。六四年といえば映画は斜陽まっしぐらだったが、記録を塗り替えるヒット作となった。俺が広島から上京した年で、東京はオリンピックを控えて、都市の心臓や動脈を大手術していてフランケンシュタインのようだった。次いで、昨年末からの純愛ブームは四十年前のベストセラーを復刊させたという記事が目に止まった。片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」に韓流ヨン様の「冬のソナタ」ときて、古くは伊藤左千夫の「野菊の墓」、村上春樹の「ノルウェイの森」(未映画化)などは、映画化されヒットを保証する。性液どころか血や汗の匂いさえない。それ以前に対自する相手が不在で、不在の相手を殺して(不治の病)おいて、即自を満足させるという、「人生は屁のようなものだ」と喝破したのは深沢七郎だが、屁にもならないものだが金になるものに世の映画人が多く溜まる。
 純愛をいうなら、先の〈希望〉に戻して例えれば、『名もなく貧しく美しく』(61)という当時題名にひどく反発した憶えがある映画がある。これも敗戦直後、耳の不自由な靴磨き夫婦(小林桂樹・高峰秀子)が懸命に生きる姿を描き、聾唖者の多くに絶大な生きる希望を与えた。監督の松山善三は「木下恵介監督に教わった〈知足〉を取り戻そう」と提言するが〈不知足〉の底が無いのが現実だ。そして先の小林信彦は、「ふたたび〈希望がもてない雰囲気〉の中に閉じこめられている」
 「en-taxi」という雑誌で「戦争でも天災でもいいんだけど、東京もしくは日本が一回、すべてチャラになっちまえばいいって願望ってない?」「ありますね」なんて話を亀和田武と坪内祐三がしている。アンリ・ミショーはずっと昔にそのことは言っていて、元より平和主義も民主主義も盤石のドクトリン作りの撒き餌だった訳だし、俺もそのことは一興かなと思っているのだ。