Flaneur, Rhum & Pop Culture
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" 歌われない歌”を歌って
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.9

 一九九二年も暮れようとする十二月の或る日、ジョン・ゾーンという日本語がペラペラで、高円寺だったかの四畳半のアパートは石原裕次郎、旭、錠、圭一郎らの日活系を始めとする映画ビデオやレコードで埋もれる程相当詳しく、青山ミチの歌が最高にイカすとか聞いた日には首が一回転する気分だった、ニューヨークに住むアメリカンで、先駆的アルタナティブ・ミュージシャンから電話が入った。スラン〜ペインキラー〜ネイキッド・シティ〜マサダ〜コブラと自己のバンドを変遷させて行ったが、彼は頻繁に来日しては日本の先端ミュージシャンの門戸を叩き、ひと太刀勝負願おうとライブ・シーンを荒し廻っていた。九八年に閉じてしまったわが「ロマーニッシェス・カフェ」を、彼は当時ライブ・プレイの根城のようにしていた。
 「ヒロキリュウイチって映画監督知ってる?」「ええっと……」「そのヒロキ監督の映画音楽をやっているんだけどサー、ロマーニッシュでピアノの音録りさせてよ」という用件だった。すぐさま日時が決まり、ピアノ奏者の黒田京子他と共にやって来たのが廣木隆一監督だった。
 映画は『魔王街』という都市生活者の迷宮を描いた作品だ。
 キッチュで人工的な夜の灯りは、極めて妖しく浮き上がり、白昼の太陽も暗く西日
射す夕暮れ刻のように終末感を漂わすアンバー色の画面だった。各シーンの状況を煽るようなジョン・ゾーンのエキセントリックな音楽の中で、主人公の男(田口トモロヲ)の内面を剥いでいくメフィストフェレスのような悪友(白竜)が弾く、ゲームへ誘惑するスローテンポなソロピアノが美しく気味悪く鳴り、かくして、メタモルフォセスの世界に入っていく。(最後に悪友が勝利者の揺らぎを見せつつ、主人公に同曲を再び聴かせる。)ゆうばりファンタスティック映画祭でグランプリを受賞したこの作品で、俺と廣木隆一の出会いがあり、続いて『夢魔』『800 TWO LAP RUNNERS』と映画館へ足を運んだ。
 今年の二月に話が跳ぶが、廣木隆一とプロデューサーの森重晃側が「レディ・ジェーン」にやってきた。「頼み事があるのですが聞いて呉れませんか?」と言って、聞けば「新作映画が出来て、何としても挿入したい歌があるんだけど、そのミュージシャンの浜田真理子を是非口説いて欲しいのですが。一応既に申し込んではいるのですが……」ということだった。「えッ! どうして俺が彼女と接点あるって知ってるの?」というと、「寺島進や御法川修や新藤風に吹かされました」ときた。二〇〇一年十一月に俺がコンサートをプロデュースした時の、いずれも自分を一番だと思い込んでいる浜田真理子のカルト・ファンの面々だ。と言っても大概の読者は彼女のことを知らないだろう。
 洪水のように一方的にたれ流されている音の中から何をどう選択するのか。持って生まれた生来の本能が直接身体の動きに直結している表現の人たち――勿論、そこには鍛練の集積が無ければ駄目な訳だが――例えば、最近観たブロードウェイで大ヒットを飛ばしたオリジナル・メンバーによる「ノイズ&ファンク」は、黒人だけのタップ・ダンサーが演劇的な筋立てで特有のビトへのこだわりを表現したステージだったが、二つの太鼓の二人のパーカッショニストの動物ぶりにも圧倒されたが、リーダーのタップの超絶度は計り知れない。緩急自在の超絶技巧は足そのものが感情表現していた。
 ところが、これとは真逆の表現世界がある。良い音楽或いは好きな音楽というのは、聴く側から言うと、音を聴くというよりは音と音の無音部分、つまりその間の次にどんな音が仕掛けられているのだろうと、手に汗握るじゃないが内耳の構えがあって、その瞬間神経の揺らぎがやってくるものをいう。勿論音楽も揺らいでなければいけない。そうでないものは悪い音楽、嫌いな音楽となる。だから、実際に聞こえている音を聴いているのか、間を聴いているのか溶け合って判らなくなってしまう程に間を共有できた時、至上の喜びを得るのだ。二十世紀の傑物アルトル・ピアソラにそれをひどく感じる。
 浜田真理子はピアニストであり歌手である。彼女が基本にしている弾き語りソロにはそれが強くあり、その上に、彼女の音楽に対する精神世界のことだが、今日付いてしまった音楽に附随した夾雑物を敢然とそいで向う潔さがある。「知足」という言葉は足るを知るの意だが、それ以下だと成立しない、それ以上だと粉飾過多になるギリギリの頃合いを心得ていて、あたかも能舞台のようで、洒落ていてバター臭くもあり昭和っぽくもあり、それで今斬新ということはそれこそ世阿弥の「秘すれば花」ってやつだ。それと、浜田真理子の詩世界は殆ど実体験を元にしていて、恋地獄やおぞましさも伺えたりするにも関わらず、本人が素っ裸になって求心すればする程、遠心力学が、又は普遍性が働くのはミステリーだ。芭蕉の言葉の「松の事は松に習え 竹の事は竹に習え」とは「私意をはなれよという事也」とある。多分、この奥行のある禅的な無垢を、彼女の身体が抱え込んでいることで、洗練された編曲もさることながら、生来持ち合わせた独特の声質が、彼女自身の私小説的世界に拉致していく時、俺たちは今日忘れがちな郷愁にも似た法悦を感覚するのだ。その風景の拡がり方と嵌り方が極めて映画的ともいえて、映画の為の創作曲でないにも関わらず、そこを台詞の行間を描くことに神経を使う監督の廣木隆一は見逃さなかった。
 近年の『不貞の季節』(01)『東京ゴミ女』(01)『理髪店主のかなしみ』(02)と続いた最新作品『ヴァイブレータ』(03)は、赤坂真理の芥川賞候補の原作を荒井晴彦が脚色した。三月二十八日に初号試写があったばかりだが、日本の悪しき配給システムの渋滞に巻き込まれ、公開は十一月になるらしい。「都会の女性の癒しと再生を描くロードムービー」と案内の文面に曰く。心的障害を受けた女が男と旅に出た中途、膨大な量のろうそく灯りに頬を紅潮させて少し心を解放するシーンがあって、先の浜田真理子の、否定されたものたちに愛しさを込めて歌った挽歌「ソング・ネバー・サング」が流れて、泣くかも知れない。
 映画を語るのは秋までとっておくとしよう。俺としては、一年中開幕している劇場でもある酒場の筋書きの無い出会いが、ドラマを創ったり壊したり、約三十年、時々加担して、又もやニヤついているのである。酒場は路地でもあり、“ミシンとこうもり傘が手術台の上で出会った美しい光景”をいつも仮想しているのだ。