Flaneur, Rhum & Pop Culture
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二十世紀最後の無声映画『白い花びら』
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.1
 今年第16回を数える「〈東京の夏〉音楽祭2000」の今年のテーマは、〈映画と音楽〉でサブタイトルに〈映画は音楽なしでは生きられなかった〉とあるように、その関係に迫ったプログラムで構成されている。例えば、ショスタコーヴィチの映画音楽第一作『新バビロン』('29)の日本初演やR・シュトラウス唯一の映画音楽『ばらの騎士』('26)、映画のために書き下ろした最古の譜面といわれるサン・サーンスの『ギーズ公の暗殺』('08)やE・サティが書いた『幕間』('24)に混って、日本の『生れてはみたけれど』('32)や『爆弾花嫁』('35)などのサイレント映画が生演奏付きで上映される。他に、トーキー以後の音楽映画の上映や映画音楽の演奏会にレクチャーといった凝った内容だ。

 映画は、30年代のトーキーが発明されるまでは、唯一伴奏音楽が観る人の情感を刺激する音だった。しかも、草創期、映画に魅せられたシェーンベルグや前述の世界の音楽家達が、時間と努力を費やしてオリジナル・スコアを進んで書いた黄金の歴史を持っている。もっとも、生演奏だったためフィルムに記録されない譜面は多く紛失したらしいが。
 個人的な無声映画体験でいえば、60年代中頃、エイゼンシュタインやチャップリンやムルナウの作品、『カリガリ博士』('19)や『メトロポリス』('27)などを嬉々として観たのを思い出すが、その十年後、ゴールデン街の某酒場に誘われて観たG・メリエスの『月世界旅行』('02)は凄かった。映画誕生の時、1902年の作品のその古さの新鮮さにショックを受け、人智の発露に感動した。サイレント後期には音入れ制作が可能になったが、ここ十数年の間、何本かの生演奏付き上映イベントがあった。

 まず84年、NHKホールで、鳴り物入りで披露されたのが、アベル・ガンス監督の『ナポレオン』('27)のプレミアショーだった。三分の一の四時間に短縮したとはいえ、カーマイン・コッポラ(フランシスの父 )指揮60名の演奏者がフルに競演した。次いで89年、グリフィスの映画史上の超大作『イントレランス』('16)が、武道館と大阪城ホールでフル・オーケストラで上映上演された。大阪まで行ったよ、糞ッ!90年にはオーチャード・ホールでマルセル・レルビエの『人でなしの女・イニューメン』('23)が、演出・石岡瑛子、装置・倉俣史郎、衣裳・三宅一生のディレクター・チームによる音楽家達と共演した。このようなバブル時代のイベントの他にも、俺のベルリンの友人である音楽家夫妻がロベルト・ジオドマク監督、ビリー・ワイルダー脚本の『日曜日の人々』('29)を東京に持ち込んで、ピアノ二台の即興による共演をやったのは95年だった。

 夫妻からのEメールによると、「ベルリンではここ数年、モノクロ映画、サイレント映画の価値観の在り方が見直され、『フィルムクンスト(映画芸術)』などと題された映画館やミュジアムなどで演奏付き上映され、ARTEというTV局でもサイレント映画と即興音楽をやる番組もある」という。それは、「デジタル音への反撥からPA機器を使わないライブが流行ったり」、「3DやSFXの氾濫するメディア流出への抵抗」という側面を反映しているし、演り手と受け手の共同作業による新たな現場の緊張感を求める音楽家は、フィルムや芝居やダンスとのライブ・コラボレーションを望んでいるし、サイレント映画サイドは演奏付きという特権的空間の場を提供し、音楽家と共に観客を同時代的特権体験させるという意図があるはずだ。
 そんな嗅覚を持ったフィンランドの反時代人アキ・カウリスマキの新作『白い花びら』('98)は、今どきモノクロのサイレント映画(音楽付き)だ。去年のベルリン映画祭で圧倒的な喝采を博した『白い花びら』は六月下旬ユーロスペースにて公開されるが、前述した〈東京の夏〉に一晩だけ、作曲家アンシ・ティカンマキ率いるフィルム・オーケストラがやってきて、生演奏上映が予定されている。

 フィンランドののどかな小村で睦まじく暮らすユハとマルヤの家に、都会からオープンカーでやってきた男との間に起こる悲喜劇は、フィンランド文学の大家ユハニ・アホが一一年に発表した小説を原作にしていて、過去三度映画化されている。特に一作目は無声映画でもあり、意識せざるを得ないはずだが、時代錯誤や奇を衒うといった言葉は必要ない。薄幸、落胆、絶望、殺意といったこれまでの作品同様の人生のネガの部分が、抑揚をおさえたつれない表現で、例によってフェイドアウトして暗転する。ジャームッシュと同様、フェイドアウト(暗転)という古典的映画手法に独自の意味は見つかるが、反骨といえば反骨だ。『浮き雲』('96)の二倍のカット割りを要したという監督の物語作りに、ティカンマキの音楽は、画面にも暗転にも同調しようとはしない。音楽を良く知るカウリスマキの演出に常に流れるオフビート感覚溢れる喜怒哀楽にも、いかにもといった音で説明したり擦り寄ったりはしないのだ。ユハが最後、マチェックもどきにゴミ捨て場で倒れるシーンにペットのファンファーレじゃあまりに悲しいよ。スプートニク・サウンドも異化効果で侘びしい。『ナポレオン』上映時、カーマインが「サイレント映画の楽譜を書くとは何とラッキーだ。中断させたりしない」といったように、『白い花びら』には、古き良き映像と音楽の関係が戻っていて、そのインタラクティブな関係は受け手としての観客にも繋がる物を創る根本的な命題のように思える。そして時代の潮流に杭をさして源流を眺める悪童カウリスマキは、プレスリリースにいう「映画そのものの敗者復活を目論んだ荒業で、失地回復を計る」ことができるのか!?