Flaneur, Rhum & Pop Culture

韓国文化人のプロフィール 第48回
金大煥(キム・デファン)
[月刊・韓国文化2000年2月号]より
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黒雨・金大煥を追悼する
 2004年3月1日、突如、韓国から金大煥の訃報を受けた。来る4月2日から3日間の来日公演に向けて追い込みに掛かっていた僕は、2月初旬、漢城大学で名誉博士号を受けたと喜びの報告があったばかりだったのに、肺結核の病状が思わぬ悪い方に進行して、前夕、「今晩から明日がやまだ」という電話を受けていても、あの強靱な肉体の保持者である金大煥の死は俄かに信じ難かった。
 ソウルに急行したい思いを押えて、中止という形を止めて追悼公演に切り替えるべく、急遽その準備を即断した。そして、由縁のミュージシャンが金大煥の力で、即決参加表明してくれた。感謝、厚謝!
 4月2日を心して待ちつつ、長年金大煥のプロデューサーをしてきた僕のせめての供養として、少々古くはありますが、皆さんに読んで戴きたく、わが拙文をここに転載致します。合掌。



韓国文化人のプロフィール 第48回
金大煥(キム・デファン)/打楽器奏者・書家・微細彫刻書家

●マキシマムな音宇宙の魔法
 <昨年11月30日、最終便でソウルの金浦空港に着くと8時半を廻っていた。普段は零下の寒さだが、ここ数日暖かだそうでそれでも2度だった。ピリッとした空気が伝わった。韓国は1988年初夏以来だから約10年振りだ。前回は、ソウル・オリンピックを秋に控えて、街中何処かしこ大改造中だった。「10年間何も変わってないよ。車がやたら混む以外はね」と、空港から街中へとハイウェイを走るリムジンバスの中で、迎えに来て頂いた書家としても名声を博す世界的打楽器奏者の金大煥がそういった。実際、有事の際軍用機の離着陸を企てたらしい片側だけで5、6車線あるだだっ広い線路が、車でぎっしり押し鮨のようになっている光景は異様だった。
 金大煥氏宅に荷を降ろし、ブルコギ(焼肉)を食べに夜の街に出る。真露酒で乾杯!肉も旨いが野菜がしっかりしている。くさい。匂いがある。金大煥は今66才。来年音楽生活50周年になるので、長い間音楽上は勿論のこと、多々お世話になった日本で記念コンサートをしたいという。その打合わせをする。(中略)50周年記念コンサートのコンセプトや演奏は誰々と何ケ所位で、どれ位の規模で等々、延々と構想を話し合ったが、真露が効いてきて気付くと3時だった。帰宅して、金さんの最新ライブのビデオで音を再確認して床に着いた。朝鮮半島の南西端の港町・木浦(モッポ)に行く為、翌朝5時半起きだったので2時間弱の睡眠だったが、数倍時間の安眠を覚えたのは、韓国独特のオンドルのせいだった。それにしても、僕より早く既に起きてい金さんの若さと鋼のような体力は今更ながらの驚きだった(中略)>

 と、いきなり私事で恐縮だが、去年の正月の僕のエッセイを抜粋してしまったが、こうして、金大煥の音楽生活50周年来日のコンサートは、去年10月9日、世界の音楽家が集まる横浜市主催の『横浜ジャズ・プロムナード』で、ピアノの佐藤允彦、サックスの梅津和時、ボイスの巻上公一との共演、そして10月20日、『千年紀を超えて』イベントの楽日に、ピアノ山下洋輔、ギター渡辺香津美、韓国舞踊鄭明子との共演という形で実現したのだった。共演者もその世界の第一人者で凄いのだが、金さんの簡素な皮張り太鼓のソロがスタートすると、そのミニマムな形からマキシマムな音宇宙をたちまち魔法のように創り出してしまうのだ。それは、遠い昔の記憶が呼び寄せる親しみのある確かな共感とでもいうか、その単純性の中に根源的なものを生み出す思想は、リズムの追求にも表れてくる。つまり、単純極まりない一拍子に向かうのである。金大煥は「胎児が聞く母体の心臓の鼓動」に例える。
 「一は、二にも三にもなるでしょ。それから、ひとつは始まりと終りですよ。僕が一拍子で音楽をすれば、一緒にやる人が三にするか四にするか選ぶことが出来る。自由な音楽を考えています」(「ジャズ・ライフ」誌談より)というわけだが、指と指の間に挟んだ、両手にそれぞれ三本ずつのトリプル・スティック奏法に、音の秘密が隠されているようだ。「一番大きいのが大統領、真中が公務員、細いのは国民、大統領は大事な時に出てくる」と、本人が笑い話をするように、細いのは柳の小枝だったり、それぞれ太さの違うスティックは、彼の手作りなのだ。その大小6本のスティックの音が微妙にずれて、同時重複するポリリズムが独特のグローバル・サウンドを創造する。依って、黒とは<隠された>の意であり、雨とは<リズム>の意である「黒雨」を自身の雅号にしている人でもある。

●韓国フリージャズの誕生
 その正に「黒雨先生」なのだが、その歴史には数多くの紆余曲折があったのは言うまでもない。京幾道の仁川に生まれた金大煥は、半島の戦争中、軍のブラス・バンドでドラムを始め17歳でプロになる。余談だが、腕に兵隊の認識票代わりの刺青があるのを見せてもらったことがある。花形ドラマーとして、韓国初のグループ・サウンズ『ADD4(アド・フォー)』を結成。次いで67年、韓国グループ・サウンズ協会初代会長に就任。メンバーに趙容弼(チョ・ヨンピル)や崔(チェ)イチョルがいて人気絶頂だった。だが、「このままではダメになる」と思い立ち、山に籠って字に向かい彫刻と書の修練を決意する。そして、7年間ひたすら『般若心経』と『アリラン』を書き続けた。70年後半、従弟のサックス奏者姜泰煥(カン・テファン)の内的宇宙へ旅するような、深化していく自己実現に感動した金大煥はトランペットの崔善培(チェ・ソンべ)とともに、『姜泰煥トリオ』を結成した。フリー・ジャズの誕生である。この姜泰煥トリオこそが、金大煥の音楽観に大きな変容をもたらした。彼らの音楽はどのカテゴリーにも入らない類いのもので、聞く者は韓国にはほとんどおらず、いても唖然状態で、自分たちの音楽がどう受け止められているか全く暗中模索だった。その純化していくだけの音楽は、フリー・ミュージックの土壌を韓国に比べれば圧倒的に持っていた日本に来ることで驚異的に花実を咲かせはじめたのだった。
 85年、近藤等則が組織した「ソウルー東京ミーティング」で初来日。その翌年以降、梅津和時、井野信義、高田みどりの3人とトリオはよく共演するわけだが、金大煥は自己の演奏スタイルに不十分さを感じていた。先に述べたトリプル・スティック奏法は、このパーカッショニストの高田みどりがダブル・マレットで演奏するのを見た金大煥が衝撃を受けたことに始まる。ものに完はない。つまり、「うむ、女で2本ずつなら男の僕は3本ずつだ」と決意し、更なる血みどろの精進が始まった。ここが彼の凄いところだ。楽器もプクやロート・タム・シンバルまたは銅鑼だけに絞り込んだ。
 以降、世界の幾多のトップ・ミュージシャンと競演を重ねていったのだが、能楽の大鼓方・大倉正之助との関わりは、関係の濃さ、質の異なり方においても特筆せねばならないと思う。金大煥は大倉正之助が<人類は皆、その地球(グローブ)に乗っている一員(ライダー)だ>という考え方で主宰する『グローバル・ライダース・ミーティング』の代表呼び掛け人でもある。戦後50年の95年広島、長崎をはじめ、中国大陸、アメリカ大陸、勿論日本列島をバイクで、能や演奏を上演しつつ、毎年地球巡礼を続けている自由組織である。バイクといえば、ちなみに金大煥は、ソウルで92年の60歳誕生日コンサートを打ち上げたが、1回は、愛用の軍用ジープ(のエンジン音)を共演者に選んだし、別の回は、奥様にプレゼントされたハーレー・ダビットソンの爆音と競演しているほど、知る人ぞ知るカー・マニアでもある。

●微細彫刻書家として
 さて、金大煥は「如水」の雅号を持ち、韓国では政界、財界、宮界、市民の広い層に知れ渡っている書家であり、微細彫刻書家である。米粒に283の般若心経の文字を彫る達人振りは、90年にギネス・ブックに認定された。書も音楽も<心>の持ち方一つのようだ。「音には人間の耳に聴こえない音もある。それは目で聴く。小さくて目で見えない文字がある。それは心で見る。心で書けば、頭のなかには大きな文字が浮かんでいても、手は小さくなる」と。分かったようで分からない瓢箪鯰のような自問自答が、金大煥の極意ということになる。そしてまた、演奏舞台では、スティックを止めて黒筆で縦に張った薄布に裏から逆文字を一気呵成に書く。それに正面から照明を当てると、客席から正文字が浮かび上がり驚天させられるのだ。先の日、金さん宅を訪ねた折、机の上のボードに名前を書いたカードが、無造作に画鋲で留められていた。僕は言った。「へぇっ、この人たち、書の注文なのか。ナ二ッ!金大中(キム・デジュン)!?」「うん、今ちょっと忙しいからねぇ」と意に解さない。そして、「音楽をする人が書く文字だから。僕は韓国でも自分から書道家とはいわない」などと言って、「高い所へ行こうとしない」で、「遠い所へ行こうと思う。遠い所は限りが無いでしょ」とあくまでも、先を歩もうとする。
 現在、韓国では、国事の式典、サッカーKリーグや映画祭のセレモニーに引っぱり出され、ライブとともに飛び廻っている人ではあるが、済州島(チェジュド)の個人美術館とソウルの仁寺洞(インサドン)のアトリエに多大な作品を蔵する禅師のような音楽家は、「70歳になったらと、今思っていることがあるよ」と、僕に意味深長な言葉を吐いた。


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