Flaneur, Rhum & Pop Culture

私のシネマトグラフ
[シネキタ通信 vol.1]より
LADY JANE LOGO












 疎開先の栃木県で五歳になった頃には、人生を失墜した親父の酒飲み相手をさせられ、三駅乗った佐野の駅前映画館にちょくちょく連れて行かれた。嵐寛十郎の『鞍馬天狗・角兵衛獅子の唄』と美空ひばりの『リンゴ園の少女』は、立ち見客で満席の最後列で親父の肩車で観たので鮮烈に憶えている。
 両親の故郷の広島に帰ると、おぞましい原爆の形骸が風景や人体のそこかしこ刻まれていて厭だった。『新諸国物語・笛吹童子』で始まった東映チャンバラ劇も飽きてきた頃、五十六年の『狂った果実』から『勝利者』『鷲と鷹』とたて続けに観た裕次郎映画の颯爽振りに圧倒されて、日本初のシネマスコープの天然色映画『鳳城の花嫁』を最後に、東映は中学入学と同時に卒業した。日活は以後七十一年のニューアクション最後の作品『不良少女・魔子』と『八月の濡れた砂』まで見続ける訳だが、小学生から広島駅前の大闇市でバイトの真似をしていた俺は、得た小遣いで相当雑多に映画館に通っていた。大映の『諸兄の部屋』の若尾文子や『暖流』の左幸子が、文学的に女のエゴやエロを剥き出しにするよりも、筑波久子の海女姿なら日活、前田通子の新東宝なら『女真珠王の復習』や『女王蜂』シリーズなどヴァンプ女優のヌードが少年の憧憬を捉えた。めくるめくプログラム・ピクチャーの洪水!
 六十四年東京へ出ると、大島渚の『日本の夜と霧』に会えた。新藤兼人の『裸の島』もあった。ポーランドの三人の巨匠に執着したり、『夜と霧』や『かくも長き不在』の問題提起もあったが、何より『ヒロシマわが愛・二十四時間の情事』('59, アラン・レネ監督)だった。ヨーロッパなら新宿文化とシネマ新宿、米ニューシネマは日活映画、ペキンパーは新宿ローヤル、やくざとポルノは昭和館と、映画館は新宿の街の色を出していた。
 六十七年下北沢の街に初めて降りた。その年の羽田闘争の直前、森弘太の『河 あの裏切りが重く』が封切られた。被爆者が身を潜める太田川と、『二十四時間の情事』の母国に引き裂かれたフランス女とヒロシマ男が逢い引きをする、その同じ川の下流に建つカフェの名はどーむだった。劇団の仲間から引き継いでバーテンダーで入った下北沢のバーの名はなんとどーむだった!この反吐の出るような符帳の店は、吉田喜重監督の現代映画社の助監督の店で映画人の溜まり場だった。
 かって、下北沢に映画館が四館あった。酒場もしかり、映画館は<街>にあるべきだ。
(2004, Aplil-May)

LINK:シネマ下北沢