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絵:黒田征太郎 文:大木雄高
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VOL.4

広島に「モーニン」が来た日


 一九五〇年代に僕の聴いていた音楽は、ビル・ヘイリーやエルビス・プレスリーだった。で、六一年、突然悪友に連れて行かれたジャズバー初体験は凄かった。狭い、暗い、煙い、音がでかい、大人しかいない。しかも基地からやって来たヤンキーだ。だが、ためらいがちの十五才の僕にも、慣れるのに時間は要せず、のめり込んでいった。

 それまでジャズは、石原慎太郎の小説や映画「太陽の季節」「狂った果実」などで読み聴きはしていたはずだが、生のLPで聴くマイルス・デイビスやソニー・ロリンズで、初めてジャズを認識し、当時、大流行のファンキー・ジャズの代表格ホレス・シルバーの「ドゥイン・ザ・シング」に夢中になった。

 その六一年、ファンキー・ジャズのもう一方の雄アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ来日と狂喜したが、わが広島には来ずじまいで、落胆していたところ、翌々年、再来日し、広島公演が実現した。

 六三年一月、本当の生体験の日、「こんな日本びいきはいない。日本的情を知っている偉いヤツだ。ほかのヤツはとんときやしないのに」と、心躍らせて出かけた。

 ウェイン・ショーターにフレディ・ハバード、それにカーティス・フラーが加わった。いま思えば凄いメンバーの三管編成だ。この三管で「スリー・ブラインド・マイス」や、当時寝ても覚めても鼻歌の「モーニン」を、ボーカルのジョニー・ハートマンまで加わってカッ飛ばすのだから、衝撃の童貞体験だった。

 それから二十年。八三年冬、僕は初のニューヨーク一人旅に出かけた。ある深夜「ブラッドレィ」というジャズバーに入った。外は身も凍る寒さだ。一杯目で尿意をもよおした。トイレをノックするが返事がない。扉はスイングドアで、上部とひざ下あたりが切れていて覗きこめる。“おーっと、ヤバイ! 白い粉やってる”。僕はそっとトイレを出て、その男が出てくるのを待っていたら、なんと顔を現したのは、あのアート・ブレイキーではないか。彼が席に座るのを待って近づいていった。「話しかけてもいいかい? 僕は六三年に広島で聴いたよ」と言うと、近づいてきた百キロほどある実娘に向かって、

「ヘイ、ドーター。このキッドは二十年前から俺の演奏を聴いているんだぜ」

 と言いつつ、僕の持っていたショート・ピースをうまそうに吸いながら、“どうだ”とばかりに、ガッハッハと笑った。

「アサヒグラフ」1998年1月30日号掲載