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起きて3尺、寝て6尺、天下盗っても2合半
VOL.85

 50日続いた「桑原甲子雄・荒木惟展」が9月5日終った。昭和11年に始まる1700余点に及ぶ圧倒量の東京の写真の裏に秘められた特権的写真時間を回廊する。両の手程の物売り、闇に浮く見世物やヌード小屋、赤子を背負って駅で待つねんねこ姿の丸髷女、投げ出された大八車と身体、廃墟のベンチの恋人達、生活臭の漂う路地裏、人々の息遣いと体温ー孤独な人間のエナジーは<曖昧さ>に支えられているのだ。西洋の、異端を抹殺することによって正統を立てる不寛容と違い、悪や敗者にも復権と機会を与える寛容の精神が背後にあったようだ。
 清貧の作家が新聞コラムで、自分の住む町這い込んだQ2やデイトクラブのピンクチラシを“苦闘の末、遂に住民の結集をえて退治”した事を勝ち誇っていたが、彼の云うゴミやゴミ男は次はどの町に行ったのだろうか!? 魅力的な対象は裾が開かれてなくっちゃいけねえよ、自警思想は不味いぜ。
 <The City Heading For Death=Tokyo>の90年代、無機質な妖怪ビル群、門を閉ざし扉に鍵し、個に籠る不寛容たちは生を隠蔽する。特権的な場(陰部、恥部)として記憶された過去の情報は、なしくずし的に区画整理されて行く。大都市TOKYOは欲望の排泄さえ管理されながら死を貪るのだろうか。

(曖昧屋太夫)

(1993.8記)