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お玉杓子は蛙の子
VOL.29
 先日、「仙がい」展に行った。禅のユーモアの大衆化をその書画や詩文に残した江戸末期の高僧だが、滑稽にして油断を許さない。丸一つ画いて「これ食て茶のめ」、丸二つ画いて「聖僧の金玉」といったかと思うと□△○を画いて題も詩もなく考え込ませる。坐禅蛙の画では「坐禅して人が沸になるならハ」といい、坐禅して悟りが開けるならとっくに蛙は坐禅していると、己を蛙にみ立てる図は説教を越えて酒脱している。「古池や芭蕉飛び込む水の音」は、水の音を聞くのは一つの悟りの境地如何で聞いているのは蛙つまり仙がい自身ということ。

 芥川也寸志(こちらは芭蕉の)「水の音」と寺の鐘のアナロジーを西洋の音階ある鐘の音と比較して、「消え去る音をどこ迄も耳を傾けて聞く音に対する感覚は日本人だけ、だが今や東京の汚い音の渦巻きの中にいて喧噪を皆苦にしない。」と、まさにお玉杓子の嘆きを書いている。でな時突然、

 現代の仙がいともいうべき蛙詩人の草野心平の訃報を新聞が伝えた。人間不信をユーモアで括るこの蛙は“ぐりりあに”とか“るるり”とか“ぎやわッ”と鳴くが巷の蛙の子は成長してどんな鳴き方をするのでしょう?

(五線譜解放戦線)

(1988.12.1記)